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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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カール・ヤスパース 『われわれの戦争責任について』

 道徳上の過誤は、政治上の罪と刑事犯罪との生じてくるような状態の土台をなすものである。数知れぬ小さな怠慢行為とか安易な順応とか、安価な理由をつけて不正を正当化したり、知らず識らずのうちに不正をうながしたり、社会全般に不明朗をかもし出してそれ自体が悪の温床となるような社会的雰囲気の発生に力を添えたりする行為は、社会の状態や出来事に対する政治上の罪を生ずる一つの条件ともなるべき結果をも生むのである。
 人間の共同生活における権力の意義をはっきりと見極めないということも、道徳上、問題となることである。このような根本的な事実要素を隠蔽することは、不正にも権力を絶対化させて事態の唯一の決定要因たらしめることと同じく、罪なのである。生きる上に頼りとしている権力関係のなかに巻き込まれてしまっているということが、人間誰しもの逃れられぬ致命的な災厄である。これはすべての人間の逃れられない罪、人間としてのあり方の罪である。正義ないし人権を実現するような権力のために献身的な努力をすることによって、この罪に対抗していくのである。正義に奉仕する権力関係を築き上げ、このような権力のために戦うということに協力を怠るのは、政治上の根本的な罪であるが、この罪は同時に道徳上の罪でもある。(p.57-58)


最初の段落で述べられている「道徳上の過誤」が政治上の罪や刑事犯罪をもたらしうる蓋然性は、ヤスパースの時代よりも現代の方が遥かに大きなものになっているように思われる。それというのもネットによってこうした道徳上誤った言動にふれる機会が増大しているからである。政治家や公的な立場にある人が(ネット上や私的または党派的または公共的な集会などで)問題発言(ヘイトスピーチや差別的発言など)をしたことがニュースになることがあるが、このような言動は通常「道徳上の過誤」であり、こうしたものを放置しておくと、そのうちそうした考え方が当たり前のものとして流布することを助長することになる。このようなものがコモンセンスとなってしまえば、権力者たちが政府に誤った行為をさせることを許すことに繋がる。

ヤスパースが後段で述べているように、そうしたものに対抗する権力関係を築き上げるように努力・協力しなければならず、このような努力や協力をしないということ自体が罪である。ヤスパースの基準は極めて理想的であり厳格なものではあるが、このような理念を掲げるか否かは、日常の言動にも差が生じるものであり、少なくとも心にとめておく価値がある。



類型的な見方が何ものかを正しく捉えているからといって、この一般的な性格づけが個人に当てはまると見られる場合に、それですべての個人を把握し得たつもりになったりしてはならない。これこそは諸民族、諸団体相互間の憎悪の手段として過去幾世紀を通じて見られた考え方なのである。最大多数の人間が遺憾ながら自明当然の考え方と感じているこの考え方こそ、ナチスが最も悪辣な用い方をしたところのものであり、かれらが宣伝によって国民の頭に叩き込んだところのものである。(p.69)


ヘイトスピーチやしばしば差別発言をする人々は、大抵この考え方に捉われている。



 けだし人間世界の問題については、現実がそのまま真理なのではない。むしろこの現実に対抗して別な現実を立てていかなければならない。別な現実が存在するか否かは、人間の意思にかかっている。(p.98)


今ある現実をそのまま認め、その流れに乗ることをよしとする人がいる。それ以外の現実を想像したり、意志したりすることができない人がいる。ヤスパースが言っているのは、あるべき未来を構想し、それを実現するよう努力することの重要性であろう。

これに対し、昨今の「フェイクニュース」といった言葉が言われるようになっていることや森友・加計問題に対する安倍政権の対応、裁量労働制に関して政府がどう考えても彼らにとって不都合なデータを意図的に隠蔽し、彼らにとって都合の良さそうに見えるデータを無理やりでっち上げようとしたとしか考えられないような対応――政府がやりたい方向に有利になるようなデータを作成し、比較することができないデータを比較して見せ、その比較の結果に対する注釈をせずに公衆の面前にさらし、かつ、より適切で比較可能なデータは可能な限り隠蔽する、というのが現時点での政府の対応であろう――に見られるように、「真理ではない現実」すら隠蔽し、より誤謬に満ちた「権力者の願望」を現実であると思わせようとする権力者たちの言動は極めて危険なものである。



 それはともあれ、祖国に対する義務はその時々の支配権に対する盲目の服従よりもはるかに根本的なものである。祖国の魂が破壊されれば、祖国はもはや祖国ではない。国家の権力はそれ自体が目標なのではない。それどころか、国家がドイツ的な本質性格を破壊する場合には、国家権力はむしろ有害である。それゆえ祖国に対する義務ということからは決して理論上当然にヒットラーに対する服従という結論が出てくるわけではなく、またヒットラー政権下の国としてもドイツはなおかつ是が非でも戦争に勝たなければならないという結論が当然に出て来るわけではない。ここに良心の錯誤がある。(p.112)


これは現代の日本の右派にも頻繁に見られる錯誤である。彼らは「国賊」とか「売国奴」といった類の言葉をしばしば口にするが、時の政権がこれから行おうとしていること、現に行っていること、過去に行なったことなどに対して「否」を言うことと、ヤスパースがここで言う「祖国」を否定することとは全く別のことである。

むしろ、大抵の場合、前者のような否定の言動をすること(つまり、現在の政府の方針に反対することなど)は、より根本的な「祖国」への忠誠から発することもあり得るし、ほとんどの場合、こうした関係になっているのではないか。ここで「祖国」と呼ばれているような「ある共同性に対して概ね共通して抱かれる想像」を前提しなければ、現在の政府の方針を変えさせて「この社会」を良くしようと思うことは難しい(より身近な人のことだけを考えて行動することもあり得るが、そのような活動では――誰にとっても常に身近な人に関係するというような場合を別とすれば――普遍性を持つことは難しい。)。



 罪の意識を基礎にした内面の清めがどこまで進んだかは、攻撃に対する態度を見て知ることができる
 罪の意識を持たなければ、あらゆる攻撃に対するわれわれの反応は、依然として反撃の形をとるのである。これに反して内面的な揺さぶりを経験したあとでは、外部的な攻撃は今はただわれわれの上面を掠めるだけである。悲しみや心の痛みは覚えるであろうが、攻撃が魂の奥底までしみるということはない。
 罪の意識が真におのれの意識となっていれば、間違った不公正な非難には平然として堪えられる。それは尊大な気持ちと横柄な気持ちとが消えてしまったからである。
 ……(中略)……。
 われわれの心を照破して変化させることを怠れば、防ぐすべもなく無力であるがゆえに、われわれの敏感さは高まる一方であろう。ものごとを心理的に劣弱意識に転換させることによって生ずる毒素がわれわれを内面的に破滅させるであろう。非難を甘受し、それを聞いたあとで検討してみる心構えでなければならない。われわれに加えられた攻撃はわれわれ自身の考え方を調整することにもなるのだから、これを避けるよりは進んで求めるようにしなければならない。われわれの内面的態度はこのようにして裏づけを得ることになろう。(p.208-209)


これを読んですぐさま念頭に浮かぶのは、安倍晋三やその周辺の人々が、従軍慰安婦問題や南京事件、その他日本政府の過去の戦争犯罪を含む歴史問題に対する際の態度である。彼らは批判されれば反論する(時には根拠がないデマやそれに近いような不適切なデータや複数あるデータのうちの都合の良い一部だけを切り取ったものを切り札として)。そこには尊大さと横柄さが見られる。罪の意識は微塵も感じられない。表面上の言葉より、こうした態度の方が彼らの思っていることを的確に見せてくれる。

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