アヴェスターにはこう書いている?
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若林滋 『屯田学校 北海道教育の礎』(その2)

 ホーレス・ケプロンが現地調査のうえ、屯田兵入植地に適しないと開拓使に報告したにもかかわらず、室蘭を軍港にする防衛上の理由から、山縣有朋の意向で兵村が設置された。(p.92-93)


農業には適さない土地であっても防衛上の理由から屯田兵の入植が行われた土地もあった。室蘭が軍港として適していると考えられていた、ということと、その後の工業都市としての発展とは結びついているのではないか。今後、室蘭についてももう少し詳しく調べてみたい。



 和田の屯田開拓は防衛を優先し、農業の立地条件を無視したため失敗に終わった。明治37年の屯田兵制度の廃止を待たず、入植した屯田兵の多くがこの地から転出してしまう。同じように立地無視で失敗した輪西兵村(室蘭市)は、天然の良港だったので今日の発展をみた。東西和田兵村を地域社会発展の核にするという、屯田兵本部の目論見は虚しかった。(p.97)


屯田兵というと、今ではそれほど悪いイメージはないかも知れないが、かなり劣悪な環境で政府の役に立つように使われたという面があるという認識を持つことは重要だと思われる。



 屯田兵本部が、防衛優先から農業には適しない海霧地帯に入植させた和田屯田開拓。食べ物も不自由とあっては、屯田兵と家族は暮らしてゆけず、離村、逃亡の道を選ばざるをえなかった。屯田兵給与規則違反による土地没収は、37の全兵村中最悪の64件にのぼった。(p.104)


上で指摘した内容をもう少し具体的に述べている箇所。



 募集の時は北垣京都府知事が疎水工事を完成して北海道庁長官に抜擢された頃で、上川に離宮が建つと聞いた。父母に話したらそれなら行こうか、と一言のもとに賛成を得てここへ来たものです(p.191)


旭川の兵村への入植者の証言。明治22年の上川離宮計画が応募の呼び水になったことがわかる。離宮は実際には建てられなかったが、この地域への関心を呼び起こし、人を集める効果はあったようだ。



 道内にはあちこちに「囚人道路」と呼ばれる道がある。その中でも、忠別太(旭川)と網走を結ぶ北見中央道路、現在の国道39号線の開削では多くの囚徒が死亡したことで知られる。
 ……(中略)……。
 当時の北海道長官は永山屯田兵本部長(司令)。対露防衛と開拓の必要から上川の屯田兵村墓地とオホーツク沿岸の結合を重視し、19年(1886)自ら沿岸を視察したうえでこの道路建設を命じた。(p.212-213)


人の命を守るはずの防衛が絡むと人の命がより粗末にされる。目的は手段を神聖にしない。

「人を守るため」とか「国を守るため」という神聖な目的を掲げて何かをしようとしている輩に対しては、実際にやろうとしていることを行った場合、何が結果として生じうるかということに通常以上に敏感にならなければならない。現在の憲法を変えようとする論の中で自衛隊の明記や緊急事態条項の創設などと言っている輩がいるが、そのようなルール変更をした場合、何が起り得るかを善く見据える必要がある。



 松前藩では忠長の配流を契機として、以後六回にわたり公家と婚姻を結んだ。京洛との往来も盛んになり、最果ての城地に都振りが浸透していった。北海道ただ一つの小京都として、松前公園の梅や桜、言葉や食べ物にまで都の名残を留めている。(p.273)


なるほど。松前藩と公家との接近が京の文化が松前や北海道にも入ってくるルートの一つだったわけだ。



 わが国の寺子屋と私塾の隆盛期は寛政(1789~)から天保末(1843)の約50年間だった。北海道はこれより遅れて、江戸後期の天保末から安政末(1859)とされる。(「北海道私学教育史」)
 ……(中略)……。
 隆盛期の天保年間(1830~1843)は10校、弘化年間(1844~1847)は4校、嘉永年間(1848~1853)は17校、安政年間(1854~1859)は11校、合計42校にのぼった。いずれも、道南部を中心に開校した。(「同」)
 これは天保の国内飢饉と蝦夷、積丹半島神威岬の女人禁制と関係がある。
 「北海道教育史」の山崎長吉氏によれば、奥羽地方では天保3年(1832)、4年、6年、7年と凶作が続き、暮らしに困った農民らが続々と蝦夷地に渡来し、道南の海岸部に住み着き、新しい集落を形成した。
 さらに触れたように、松前藩は元禄4年(1691)に神威岬以北への婦女の通行を禁止した。そのため、特に福山、江差、箱館の三港付近を中心に渡来者の定住が増え、寺子屋、私塾の発生を促したという次第だ。(p.279)


なるほど。蝦夷地に渡来してきても、奥地に行くことは禁止されていたから、入口に付近に留まる人が多かった。そのため、この地域に寺子屋、私塾が生まれることになった、というわけだ。

少し気になる点としては、神威岬以北までこの時期にそれほど人が移住するインセンティブがあったのかどうかという点であり、ここには若干の疑問がある。神威岬以北への入植が出来たとしても、この時期にはそれほど多くの人が北部への移住はしなかったのではないか。そうであれば神威岬の女人禁制はそれほど大きな要因とは言えないのではないか、ということである。



 開拓が進んだあと他府県と同様の学務を執行すべく、それまで北海道の普通教育に特例を設けてくれるよう求め、受け入れられた。この精神は、長く本道の教育行政を支配し、昭和16年(1941)に小学校が国民学校になるまで生かされた。正規の小学校教育に対して、便宜の教育措置がとられ、いわゆる正系教育に対する傍系教育がその後も続いたのである。本道の一般諸政策が植民地政策をとってきた歴史的過程は、教育においても明らかに見ることができる、と「北海道私学教育史」は指摘している。(p.304)


北海道における一般諸政策が植民地政策をとってきており、教育においても同様であったという認識は重要であり、戦前の北海道を考える上で見逃すことができないポイントであると考える。



 農商務省が農学校を直轄するのは不自然との批判が起こり、文部省移管が望まれたが、北海道庁管轄などを経て、同省直轄となったのは同28年4月だった。(「新撰北海道史第三巻」)
 この経緯にも、札幌農学校が北海道開拓行政と一体だったことを示している。(p.317)


なるほど。札幌農学校の歴史を見るとき、いつも、何年にどこの管轄となったということに言及されるが、その意味する所については必ずしも明確に指摘されないことが多いが、本書は非常に明快にその意味することを指摘してくれている。



 金子の復命は、開拓使-三県と続いて主導権を握った薩摩閥に対する批判でもあった。かねて道政を薩摩閥から切り離したいと願っていた長州のリーダー伊藤博文は、長州出身の山縣内務、井上外務両卿の賛同を得たうえ、清隆にも「異存なし」の言質をとって三県廃止と北海道庁の開設を決断、金子にその官制を起草させた。(p.321)


なるほど。札幌農学校を不要としたり、囚人を人と認めないような発言でも知られる金子堅太郎の復命書だが、大局から見ると薩摩閥が北海道開拓の主導権を握ってきたことへの批判という意味を持っていたという点は押さえておいてよい。



 道内の実業教育では、軍需生産拡大のため国庫補助制度を利用して工業学校の設置を奨励、昭和16年の10校が20年22校と増え、学科増設もあって生徒数は昭和12年の1,371人が20年には11,862人と激増している。
 一方商業学校は経済統制の下、必要性が薄らぎ19年の16校が20年10校に減った。工業高校への転換によるものである。(p.352)


軍需生産の拡大のため補助金を使って工業学校の設置を奨励していたというのは、なるほどと思わされた。

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