アヴェスターにはこう書いている?
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社会思想史学会年報 『社会思想史研究 №22 1998 シンポジウム:社会システムの現状と問題点』(その2)
細見博志 「マックス・ウェーバーと価値判断論争」より。

 反講壇社会主義者は、自らはあらゆる価値判断を排除して、経済学を浄化すると主張しているが、ウェーバーによれば似非価値自由論者であり、一見中立的な装いのもとで密かに大資本の利益を代弁しており、それによって甘い汁を吸っているのだ、というのである。「懲罰教授」や「迎合教授」の存在をみれば、そのような疑いは色濃く残っている。しかしここでは彼らに対するウェーバーの非難の当否はひとまずおいて、事実として確認すべきは、反講壇社会主義者は、存在と当為を峻別し、その上で経済学からあらゆる当為を放逐せよ、と主張したということである。その放逐すべき当為とは、なかんづく講壇社会主義者の説く労働者保護政策である。しかし経済学が実践的学問である限り、やはり当為は不可欠である。その当為は、反講壇社会主義者の場合、「事実をして語らしめる」という彼らのお気に入りのスローガンの通り、まさに存在から導出されたのである。しかしながらそのようにして導出された彼らの当為には、反社会政策という一定の方向性が常について回っていた。「事実をして語らしめる」とは、事実の選択、その因果付けの方向、に聞くものをして意識せしめない誘導がなされている。とすれば、政治のレトリックとして、極めて有効で洗練された技法であるが、知的に誠実な学問の方法ではない、とウェーバーなら言うところである。(p.68-69)


価値判断論争に関する論争の背景についてこの論文で論じられているということを知り、この論文を読もうと思い、この雑誌を手に取ったのだが期待通り興味深い事実がわかった。ウェーバーとシュモラーらの社会政策学会内での論争の背景には、社会政策学会外に社会政策を否定しようとする反講壇社会主義者(その背後には産業資本)がおり、彼らは価値自由論を誤用することでその主張を正当化しようとしていた。ウェーバーの方法論を読むときには、単に相手方のシュモラーらだけでなく、反講壇社会主義者にも配慮しながら書かれたことも念頭に置く必要がある。

また、当時と同じ論法を使うかどうかは別として、経済政策について発言する学者やエコノミストなる者たちの中には、ウェーバーの時代の反講壇社会主義者と同様、大資本の利益を代弁し、甘い汁を吸っているような輩も多い(メディアへの露出のチャンスも多い)ということは念頭に置く必要があり、彼らの使う「知的に不誠実な政治的なレトリック」には常に注意が必要であろう。



渡辺孝次 「マルクス・エンゲルスとマイノリティの論理」より。

 近年、マイノリティ研究がさかんである。そのことは、近代をもっぱら自由と解放の時代と見る単純な「進歩史観」から脱し、近代こそある意味で抑圧が強化された時代であったとする、近代再考の動きと関係が深い。近代に解放されたのは、結局のところマジョリティにほかならず、それまで容認されていたマイノリティの権利は、かえって制限されていったとする認識において、両者はあい通ずる。(p.134)



私としてはあまり近代を「解放の時代」とは考えていなかったが、私より少し上の世代にはこのようなイメージで近代が捉えられていたのだということに久しぶりに思い至った。本書は1998年に出ているが、この頃にはまだ80年代や70年代以前の感覚を持った人がそれなりの数活動しており、その時代の考え方も参照しながら批判していくような作業がされたと思われるが、それから約20年も経過すると、ここで言う「近代再考」により修正されてきた「近代観」が常識になってきたのかな、という気がする。



藤野寛 「ユダヤ人問題との関連においてみられたホルクハイマー/アドルノの「非同一的なもの」概念」より。

一方の解釈では、ユダヤ人は、近代化過程に必死でしがみついている者たちから、あたかも啓蒙的近代の艱難辛苦から自由であるかのような存在として恨みを買う、とされるのに対し、他方では、その同じユダヤ人が近代化過程の成功者、成り上がり者とみなされ、そこから落ちこぼれた者たちに妬まれる、という話になるのである。ほとんど正反対の議論が二つながらまかり通っている、というしかなく、『啓蒙の弁証法』も、その両方に目配りすることを忘れていない。
 この事態は何を物語っているのか。要するに、反ユダヤ主義者にとっては、ユダヤ人が何者であるのかは、実は問題ではない、ということである。反ユダヤ主義の根は、ユダヤ人の側にあるのではなく、反ユダヤ主義者の側にこそ見出されるものなのだ。反ユダヤ主義は「ユダヤ人を必要としている。(215)」そして、このメカニズムに光をあてるのが「投影」についての分析に他ならない。(p.184)


これは反ユダヤ主義だけでなく、恐らくほとんどあらゆる人種差別及びそれに類する差別に当てはまると思われる。現代日本においてこれに類するものとしては、在日コリアンらへの排外主義的な差別や中国や韓国の人々に対するネトウヨ的な嫌悪などを挙げることができよう。そうだとすれば、差別や嫌悪の対象となっている人々が問題なのではなく、差別や嫌悪を表明している側に問題があるのである。



齋藤哲郎 「ネオ・マルクス主義と台湾」より。

 やがて、85年8月にレーガン大統領が台湾に民主化を勧告し、87年7月15日、戒厳令が正式に解除され、11月には中国大陸への親族訪問が許可され、さらに、蒋経国死去による李登輝総統時代の開幕(88年1月)以降、いわゆる政治的民主化・自由化が進み、表現の自由も大幅に許容され、学術・思想の分野も様変わりした。注目すべきことは、多くの台湾知識人や青年が、解禁されたマルクス主義出版物を貪るように渉猟し始めたことである。マルクス主義は、サルトルやウェーバーと同様に、台湾の知的ブームの一つになったのである。(p.201-202)


日本でも60年代頃はウェーバーや実存主義が流行した時期があったが、この思潮は台湾でも同様に流行していたということか。マルクス主義が90年代台湾で知的ブームになったことについては正直あまり驚きはないが、ウェーバーやサルトルが台湾でどの程度、また、どのように読まれたのかというのは興味が惹かれる。



安川寿之輔 「白井厚編著 『大学とアジア太平洋戦争――戦争史研究と体験の歴史化』」より(書評)。

「初めから国家目的に従属」していた戦前日本の大学が(だからこそ)専門教育・職業教育に偏向し、侵略戦争の進行に傍観者的で無力な知識人の形成しかできなかったという反省から、新制大学は、一般教育を大学教育の「根幹的意義を有する」中核に位置づけることを目ざし、その「成否こそ、新制大学の運命を決するカギ」と考えた。90年代の大学「改革」は、その一般教育を縮小・解体する歴史邸な誤りの道を歩んでいる。(p.228)


この見方は参考になる。この本も手に取ってみたい。

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