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アヴェスターにはこう書いている?
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陳柔縉 『日本統治時代の台湾 写真とエピソードで綴る1895~1945』

 戦後第一世代の企業家たちにはひとつの共通点があった。
 ……(中略)……、みな公学校しか出ていない。
 いや、当時ならこれで「相当な学歴」であり、その競争力は現代の大学卒を上回る。呉火獅までの四人は公学校卒業後、みな日本人が経営する商店で見習い奉公をした。戦後、自ら起業した彼らは、その日本語能力から日本の商社との密接な関係を維持し、日本の書籍や新聞をよく読み、日々新しい情報を吸収した。(p.37-38)


戦後第一世代として活躍した人びとの学歴について、公学校卒が高学歴となるのは、228事件によってより高いレベルの教育を受けた人々が大量に殺されたことも関わっているように思われる。



 植民支配の差別待遇により、多くの台湾人が精神的に苦痛を感じていた。当時の台湾を代表する名家・霧峰林家の林献堂は、中国の新聞をよく読み、梁啓超を崇拝していた。1907年(明治40年)、日本を旅した林献堂は奈良の旅館で梁啓超と邂逅した。……(中略)……。
 梁啓超は林献堂に言った――これから30年、中国は台湾を助ける能力を絶対に持ち得ない。台湾人はイギリスにたいするアイルランド人の抵抗運動を見習うべきだ。その初期、アイルランド人は暴動を繰り返し、イギリスは警察または軍隊でそれを鎮圧した。犠牲者ばかり多く、成果は乏しかった。のちにアイルランド人は戦略を変え、イギリス政界に働きかけることで、ついには参政権を得たのだ――甘得中はその提言に「まったくもって妙案」と唸った。
 林献堂はその温和な性格もあり、自ずと梁啓超の路線を進んだ。台湾総督府との正面対決は避け、海を越えて日本中央政界の要人と交友を結び、苦境を訴えた。ではどの大物に働きかけるのが効果的か、考えた挙句、「自由党の名において政党政治の基礎を作り」「全国各層に崇拝者がいる」板垣退助しかないという答えに達した。(p.80)


台湾では十分な成功を得られなかったとはいえ、梁啓超が言い、林献堂が行ったような方法は重要である。



 当初は、在台日本人(内地人)も台湾人(本島人)も、同化会の考えを歓迎した。もっともそれは、昨今の言い方を借りるなら、「ひとつの同化に、それぞれの解釈がある」といったところであろう。台湾人が同化に込めた夢は、「日本人と同等に扱ってほしい」であった。つまり、自分たちも参政権を持ち、高官登用への道が開け、日本人と自由に結婚できること。
 一方、日本人の頭にあった同化は「俺たちと同じになってみろ」に違いなく、台湾から陋習をなくし、台湾人を本当の日本人に脱皮させることが本旨であった。(p.81)


板垣退助が「台湾同化会設立趣意書」を持って台湾を訪れた。1914年当時の内地人と本島人の「同化」観。基本的にはその通りであっただろう。



板垣は日本で、もはや時代遅れの非主流派となっていたのだ。(p.85)


本書を読んで、板垣退助という人物に興味を持った。

彼は比較的リベラルな考え方であったがゆえに、幕府と政府が対抗していたり、政府が権力を握っても旧勢力を取り込んでいく必要があった場合には、政府側にも好都合な面があったが、政府が中央集権的な権力を得てしまうと、政府にとっては不都合な面も出てくる、大まかな潮流としてはそうした流れがあったのではないか、と想像する。



世界的なデモクラシーの風に押され、結婚は自分で決めるという考えが台湾で広がったのは、20年代に入ってからである。「自由恋愛」をスローガンとする若者たちに対し、保守派は「恋愛」と台湾語(方言)の発音が似た「乱愛(ルアンアイ)」という嫌味な言葉を作り出し、対抗した。(p.108)


大正デモクラシーは当然、日本統治下の台湾にも及んだようだ。



 異なったふたつの食文化が少しずつ譲歩しあい、一方では弁当という形式を受け入れ、一方では冷めた飯を切り捨てた。その融合の結果できたのが今日台湾で食べられている、ご飯もおかずも温かい、台湾特有の弁当なのである。(p.152)


台湾の「便當」は、日本の冷たい弁当と中国の温かい食事の両方を組み合わせているというのは興味深い。



 帰国して改めて感じたのは、台湾の歴史は台湾島の中だけに残されているのではないということだ。日本統治時代においてはなおさらである。東京は、そのなかでも台湾人の足跡がもっとも多く残された都市だろう。(p.232)


この考え方は本書を読んで最も面白かった点であった。日本側から見ると、台湾に刻まれた歴史の中にかつての日本の影響やかつて日本の人々が残した仕事などを見出して喜ぼうとする風潮があるが、逆から見ることも可能だというわけだ。

ただ、本書を読むと、東京に残る台湾人の足跡を探すことは、明らかに日本人が台湾に残した足跡を探すよりも難しいことであるようにも思われた。統治する側とされる側の非対称性はこういうところにも表れるのだろう。

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