アヴェスターにはこう書いている?
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大谷渡 『台湾の戦後日本 敗戦を越えて生きた人びと』

子供たちは日本語がとても上手だったが、初中に入ってからはまったく話さなくなった。「中学に入って排日でしょう。全然言わなくなった。」と、蕊は言う。日本から帰った夫は、台湾での戦後の生活になかなか慣れなかった。劉興寿は、日本語と台湾語で生涯を通した。「うちの主人は全然北京語で話さなかったの。」と彼女は言い、「とても嫌っているから言わないの。何回も手術して、85歳で逝っちゃったけど、私といる時はいつも日本語で話した。」と語る。(p.103)


蕊さんは大正11年生まれ。子の世代は、戦前は日本語(日本)の公学校、戦後は北京語(中華民国)の中学校に通った世代であり、北京語を習得していく。親世代は北京語を学校で習うこともなく、台湾語と日本語で生活していく。この場合の親子は台湾語で話している家が多かったと思われる。



宝玉は、「私は日本語しかできないから、北京語は話さない。」と言う。「家では、自分の子供たちと台湾語で話すが、孫とは話せない。」とも言う。戦後、学校教育が北京語になったから、戦後に教育を受けた子供たちの常用語は北京語になった。日本語で教育を受けた世代は、日本語と台湾語を話すことができる。この親に育てられた子供たちは、親が話す台湾語は聴き取れるが、北京語で育てられた孫たちは台湾語での会話はできないのである。
 李宝玉の言葉に耳を傾けていた李淑容は、「私は、北京語を勉強して話せるけれど、日本語がいちばん気持ちを表すことができる。」と言う。
 日本の統治下で育った人びとの半生は、その後の半生においても、日本との深いつながりの中で途切れることなく生き続けている。日本の敗戦によって、人びとの人生の歴史が区切られるかのような見方は避けた方がよいであろう。それぞれの心に残っていくもの、新たにつけ加わり変容していくものを多面的かつ慎重に見つめてこそ、人びとの人生への理解を深めることができるように思う。(p.108)


日本語世代の多くは台湾語などの母語と公用語としての日本語を習得している。戦後世代は母語と公用語としての北京語を話す。孫の世代は北京語で育てられていると、孫世代と祖父母世代の共通言語がなくなる。台湾では割とよくあるが、孫とコミュニケーションするために北京語を勉強しているという日本語世代が少なからずいる。しかし、日本語世代は昭和5年(1930年)生まれでも、既に87歳であり、台湾を旅しても街中で普通に出会うことはほとんどなくなってきた。日本語世代について記録していくことは、日本と台湾との関係に関心を持つ者にとって非常に重要である。



成績がよく家庭も裕福だった彼は、担任から州立台中農業学校への進学を勧められた。
 ……(中略)……。入学試験の合格者100人のうち、70人が日本人、30人が台湾人だった。日本人7割、台湾人3割の比率で合格させることになっていた
 ……(中略)……。
 各科目の成績は、「秀」「甲」「乙」「丙」「丁」で表記されたが、「教練」「修練」「武道」「体操」「実習」の五科目は、「甲」以上を台湾人生徒に与えてはいけないことになっていたという。だが、徳卿は鉄棒・高跳び・幅跳びに優秀な成績を修め、「軍人勅諭」を全部覚えて、二年生の時に「体操」と「実習」に「甲」の成績がついた。(p.112-113)


前段を読んだときは、差別と見るべきかアファーマティブアクション的なものと見るべきかという疑問が浮かんできたが、後段は完全な差別であり不当な評価法だと言わざるを得ない。こうした決まりがどのように決められているのかを知りたいところだが、「甲」の成績が実際についた台湾人子弟がいるというあたりからして、教師の間の不文律的なものだったのだろうか。



 終戦後、中国国民党軍が台中にもやってきた。彼らが畳の上に、土足で上がり込んで来たことがあった。徳卿は、無礼をきびしく叱責したという。二二八事件の時、友達だった台中農業学校の同級生が連れ去られて銃殺されたことは、決して忘れえない出来事であった(2009年9月1日談)。(p.119)


戦前日本の教育は価値観にかなりコミットするものであったことが、当時の少年たちにこうした心性(畳に土足で上がることを無礼とする)を持たせ、そうした考え方に誇りを感じさせているところからもよく分かる。



進駐した米軍との関係があって、台湾人少年工たちは戦後、神奈川県庁から優先的に食料をもらえたという。(p.134)


米軍占領時代には、台湾人は中華民国国籍ということになったから連合国側の人間となり、日本人より優遇された。



事務職には、戦前から勤めていた台湾人のほかは、日本人に代わって大陸から入ってきた「外省人」が就いたので、就職の余地がなかった。戦前から台湾に住んでいる「本省人」より事務能力が劣っていても、課長以上は「外省人」が占めたという。(p.135)


戦後の中華民国の統治下でも台湾の人々は、日本による植民地統治と同じように差別を受けたと言える。ただ、その後の経過を見ると、言語が同じになっていくと、日本人に対してよりは同化しやすかったとは言えるかもしれない。



私たちはね。やはりあの時は、早く戦争を終ってほしいと願っていた。台湾が日本によって統治されている。そういうことから、内心は早く自立したいという思いを持っていた。だから終戦は、台湾が日本の統治から脱する勝利を意味した。台湾人の中には、その時中国が悪い人であるということを知らなくて、祖国に帰りたいという人もいた。だけど帰ってみたら大変だった。やっぱり日本がいいと言うんですよね。(p.146)


戦前の台湾人にも政治的に自立したいという考えを持っていた人がいた。これがどのくらいの規模と強さで存在したのかが重要な論点だと思う。当時の台湾の人々のアイデンティティとして「日本人」「台湾人」「中国人」といった要素がどのように絡まり合っていたのか。それぞれの社会層や母語や居住地などによるアイデンティティの差異はどのようなものだったのか。



 二二八事件の犠牲者について、おおっぴらに話せるようになったのは、1988年に李登輝が本省人として総統に就任して以降のことであった。(p.149)


これに続く部分に「二二八事件の被害者は、みんな隠れていたのです」という証言があるが、こうした歴史に対する最近の台湾の人々の向き合い方には羨ましいものを感じる時がある。ここ数年、台湾でもバックラッシュ的な言説が漏れ聞こえているが、全般としては歴史に対する感覚は現在の日本(歴史修正主義者たちが公の場で事実に基づく反論をほとんど受けずに発言が垂れ流しになっている)よりも健全であるように感じられる。



 台湾が日本の統治下にあった時代に、台湾の教会と日本の教会は密接な関係にあった。(p.151)


このあたりはもう少し掘り下げて知りたいところであり、本書からもらったテーマ。台湾は日本よりもキリスト教が普及しており、私の友人たちもクリスチャンが結構いることもあり、台湾のキリスト教の歴史的な背景には特に興味を持っている。

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