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アヴェスターにはこう書いている?
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金子展也 『台湾旧神社故地への旅案内――台湾を護った神々――』(その2)

 神社が造営されたのは昭和12年(1937)、丁度この年に支那事変が勃発し、第17代総督小林躋造が就任早々打ち出したのが「皇民化政策」、「国民精神総動員運動」と「一街庄一神社政策」である。清水神社はそのような時代背景を持ち、総工費6万7,000円を投じて大甲郡に造営された神社であった。(p.87)


本書を見ていると、この時期に「鎮座」となっている神社が非常に多いことに気がつく。「一街庄一神社政策」の詳細は本書でも語られていないが、この政策が関係しているのだろうということは容易に想像できる。中国との戦争に突入し、「皇民化」や「国民精神総動員」といった排外的で国粋主義的な動きと連動している。



 昭和14年(1939)に入ると台湾全土で敬神観念を高め、国民精神作興の徹底を図るために神社造営計画が慌ただしく進められた。員林郡においても神社崇敬の念を涵養せしめ、且つ、皇紀2600年記念行事として、員林神社の遷座(昭和15年末頃か)が行われた。これが現在も残る神社故地である。戦況が激しさを増し、更なる「皇民化」運動が推進されるに及んで、官民や学生児童の神社参拝が求められだした。そして、昭和17年(1942)2月28日に郷社に列格された。(p.95)


昭和14年には上で述べられていた「一街庄一神社政策」が具体化の段階に入ってきたということか?こうして設営されていった神社に対して皇民化を推進するために神社参拝が求められるようになっていく、という流れなのだろう。

引用文の最後に、「郷社に列格」とあるが、本書を読んでいると、戦争の後期にはこのように神社の格を持ち上げる動きが各地で見られる。各地域の人々から忠誠心を調達するための政策であったと思われる。



 当時の北斗郡には神社がなく、国民精神涵養上遺憾であるとの理由で、昭和10年(1935)3月、当時の藤垣郡守により、尊崇の念を養い国民精神を涵養するために、神社造営が計画された。(p.97)


こうして北斗神社は昭和13年に鎮座したという流れは、まさに先に引用した2つの文章の流れと一致するものであることがわかる。



 大東亜戦争が始まると、地方での神社造営費の調達が難しくなり、総督府の「一街庄一社」政策は一向に進まなかった。このような状況下に於いて、総督府は地方の神社造営費や運営費を軽減できる「摂末社」の造営を許可する。これに呼応するよう、斗六郡に於いては、斗六神社を中心に、各庄街に昭和16~17年にかけて末社が9ヶ所造営された。非常に珍しい例である。(p.111)


日中戦争の段階では神社が次々と建てられたが、太平洋戦争の段階になるとそれが止まったということだろう。確かに本書を見ていても昭和12~14年頃に鎮座した神社が多かったという印象が強い(詳しく数は数えていないが)。



また、日本と同様に清朝を敵に回した明朝に対する忠節であることに加え、当初から純日本式神社では抗日運動を助勢することを考慮したのではないか。(p.137)


明治30年という台湾統治が始まって日が浅い時期に鎮座した開山神社は、なぜ日本の古来の神ではなく「鄭成功」を祀る神社だったのか、という理由の一つ。台湾統治初期には、現地で様々な抵抗を受けながら統治を進めていった事情が反映している。



 当時の東港郡には神社はなかった。そこで、国民精神作興10周年である昭和8年(1933)に神社造営に向けての具体的な活動が進み、2年後の昭和10年(1935)10月18日、鎮座祭を執り行った。「皇民化」運動が叫ばれ、時局の進展に伴い、戦勝および国威宣揚武運長久を神前に祈願するようになり、一般郡民の参拝が急増した。そして、昭和17年(1942)10月31日に郷社に列格する。(p.157)


上に引用してきた流れと同じ。昭和10年前後に計画と鎮座、太平洋戦争後には神社の建設は難しくなったのに代えて格上げすることで忠誠心を調達する。神社の建築にはかなりの費用がかかるが、ランクを上げるだけなら政府支出はそれほど必要ない。総督府は、恐らく、新しい神社を建てられないので、神社のランクを上げることにしたのではないか。



 戦局が益々悪化する昭和19年(1944)初めに南方および西方における地勢上の重要な港であるとのことから、海上守護神として総督府の許可を得て讃岐の金刀比羅宮の祭神である大物主神を東港神社の境内に摂社として祀ったようである。(p.157)


第二次大戦末期になってこんなことをしている人がいたとは驚いた。

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