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アヴェスターにはこう書いている?
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西澤泰彦 『植民地建築紀行 満州・朝鮮・台湾を歩く』

 現在、この地の残っている校舎は、1928年に竣工した医学部本館、1931年に竣工した大学本部(図21)である。前者は、ソウル大学校医科大学として使われ、後者は韓国文化芸術振興院に転用されている。いずれも鉄筋コンクリート造三階建で、外壁に茶褐色のタイルが貼られ、最上階の窓をアーチ窓とし、車寄せを突き出した外観は、両者に共通だが、医学部本館が文字通り地上三階建であるのに対して、大学本部は、一階を半地下化しているため、車寄せと玄関は二階に設けられている。そのような違いはあるにせよ、この時期に震災復興を進めていた東京帝国大学の一部の校舎、新設された九州帝国大学や北海道帝国大学の建物にも見られる形態である。(p.104-105)


旧京城帝国大学の校舎についてのコメントだが、図21の写真を見た瞬間、北大の旧理学部(現在の北大総合博物館)の建物(1929年竣工)とそっくりであるのに驚いた。



同じ時期に設立された帝国大学でありながら、京城帝国大学の場合は、キャンパス計画そのものが重視されなかったのに対し、台北帝国大学では、キャンパスの中央に骨格となるグリーンベルトを通すという手法を用い、秩序を重視したキャンパス計画がおこなわれたといえる。この手法は、後に最後の帝国大学として1939年に開学した名古屋帝国大学のキャンパス計画に踏襲される(木方十根、2010年)。(p.107)


台北帝大のキャンパスが秩序を重視した計画に則っていることは、台湾大学のキャンパスを訪れた際に感じたが、名大のキャンパスにも手法が踏襲されているとは知らなかった。名古屋大学は行ったことがないので、今度この観点から見てみたい。



そして、戦後、キャンパスが東側に拡張されたとき、このグリーンベルトはそのまま延長され、その正面には最終的に新たな図書館が新築された。
 結局、二つの帝国大学は、いずれも植民地支配の産物であり、植民地支配が終わった時点では、遺物として残ったが、それから半世紀を経て、遺産としての扱いをうけるようになった。そして、台湾大学では、植民地建築であるはずの建物が現役の校舎として、日本の国立大学には見られないほどきれいに、かつ丁寧に使われている光景が展開している。建物を大切に使うという基本的なことがいかに重要なことかを認識させられた。(p.109)


旧台北帝国大学(現・台湾大学)のキャンパスについての記述。グリーンベルトの正面にある大きな図書館は現在では台大のキャンパスの印象的な部分となっているが、あのあたりは戦後に拡張された部分だったことを初めて知った。「外地」にあった旧帝大の情報はやはり少なすぎる。



詳細な事情は不明であるが、台湾からの留学生で壁塗り技術などを研究している葉俊麟さんによれば、台湾では、伝統的に壁塗りの技術が発達し、特に、植民地時代には、洗い出し仕上げの技術が飛躍的に向上していたという。これは、相対的に良質な建築用石材が少なかったことが背景にあるが、それだけでなく、台湾は東アジア地域の中で最も早く鉄筋コンクリート造が普及し、その仕上げとして人造石洗い出し仕上げの需要が高かったことも、洗い出し仕上げの技術が向上した原因であろう。ちなみに、私は2010年9月、葉さんや写真家の増田彰久さんと一緒に台北市内の近代建築を見て廻った経験があるが、葉さんに指摘されて初めて洗い出し仕上げが施されているのに気づいた場面が何度かあった。なぜかといえば、日本国内の近代建築では常識的に石が使われていると思われるところでも、台湾の近代建築では洗い出し仕上げにしているところが多いからである。(p.164-165)


台湾では鉄筋コンクリート造が早期に普及したのはよく知られているが、壁塗り技術(洗い出し仕上げ)というのはあまり気にしたことがない観点だった。今度行く時には少し注意してみてみたい。



しかも、国策会社であった東清鉄道が積極的にアール・ヌーヴォー建築を建設していったことやそれを記録した写真集の装丁がアール・ヌーヴォー様式であったことは、東清鉄道がアール・ヌーヴォー建築、アール・ヌーヴォー様式に大きな意味を見出していたことに他ならない。それは、単に流行の様式を用いただけでなく、当時の最先端であったアール・ヌーヴォー建築を建てることが、帝政ロシアの支配力を誇示する結果につながるという判断があったと推察されよう。したがって、ハルビンに建てられたアール・ヌーヴォー建築は、帝政ロシアにとってウラジオストクや旅順に配備された艦船と同じ意味を持っていたといえよう。(p.242)


ハルビンにアール・ヌーヴォー建築が多い理由。



 そうした中国商人達の目に映ったのは、ハルビン市街地に次々と建てられていく西洋建築であった。とすれば、自分達もそのような西洋建築を建てたいというのは自然な願望である。そこで、彼らは中国人の職人達に同じような建物を建設させたのであるが、建築というのは、大雑把な外観だけでなく構造や詳細な意匠を理解しなければ同様のものを建てることは難しい。傳家甸の建物を建てた中国の職人達は、ロシア人達が建てた西洋建築の外観だけを模倣した。ところが西洋建築を根本から理解していたわけではないから、目に見えるかたちだけを職人たちが自分なりに理解していった。当然、「誤解」も生じ、その結果、西洋建築とは似て非なる建築が出現した。たとえば、アカンサスの葉に飾られるコリント式の柱頭にアカンサスの葉ならず白菜のような野菜を乗せてしまうのはその典型である。円柱の柱礎に中国建築の柱礎を使ってしまうのも同様だ。
 このような現象は、ハルビンの傳家甸だけではなく、瀋陽、北京、天津、上海、武漢、アモイ、広州、など、中国のあちこちに見られる。これらに共通していることは、外国による支配地と隣接する中国人主体の市街地に成立したことである。(p.250-251)


中華バロック建築は西洋諸国の支配地に隣接する地域で成立していった。なるほど。興味深い。これらの地域で成立した中華バロックは他の地域にもさらに伝播したのだろうか。台湾のいくつかの「老街」に見られる中華バロック風の建築はどのような経緯で建てられていったのか?台湾に関心を持つ者としてはこのあたりが気になるところである。



  ところで、中華バロックの成立と似た現象は、明治維新の日本にも見られた。各地に建てられた擬洋風建築がそれである。ただ一つだけ異なる点は、建てられた時期であり、それに起因する意匠の差である。言い換えれば、手本とした西洋建築の違いであった。中華バロックの成立が20世紀になってからであるのに対して、日本の擬洋風建築は、19世紀後半から建てられていく。そのため、手本となった西洋建築にも時代の差があり、一方で装飾過多な中華バロックが成立し、一方で簡素な擬洋風建築が成立した。(p.251)


興味深い。中華バロックと擬洋風建築は兄弟のようなものとも言える。では、日本や中国以外ではどうだったのか?

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