アヴェスターにはこう書いている?
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港千尋 『革命のつくり方 台湾ひまわり運動――対抗運動の創造性』

 群衆は、これを実体ではなく過程としてとらえたほうがよい。どこかに群衆と呼ばれる集団が、実体として存在するわけではない。群衆はある時点に存在するが、別の時点には消えている。群衆はいくつかの種類に分類することができるが、そこには必ず人間が群衆となる過程がある。この過程こそが群衆の本質である。だから群衆には全体がない。通常わたしたちは、群衆を人間の塊として、全体としてイメージするが、それは輪郭を持たない全体なのである。この全体の不在こそが群衆を群衆にするのである。
 そのよい例がデモの参加者数の発表だ。たいていデモの後で発表される人数は、主催者側と警備側で大きく異なる。……(中略)……。だが、この現象の本質は別のところにある。群衆は数えられないのである。(p.46-47)


本書(というか著者)のこうした「群衆」の捉え方は興味深い。これはオートポイエーシスや自己組織化の考え方を援用するとどのような事態なのかよく理解できるように思う。

例えば、ある人が街頭である政治的主張をする。それに賛同する人が周囲に集まる。それを見てさらに通りがかりの人が「何だろう?」と思って集まる。その一部は興味を抱いて話を聞く、一部は興味がなく立ち去る、またある一部はより積極的に賛同の声を上げる、など様々な反応があるだろう。こうやって人が集まっていく中で交わされるコミュニケーションがある熱量を持つ、あるいはノことがある。このとき、このプロセスとそれに伴って生じる熱量ないしノリは、コミュニケーションに関わっている個々の人間の総和とは何か違うものになっている。こうしたプロセスの継続によって立ち現れるものを、ここでは「群衆」と呼んでいると思われる。



すでに述べたように、イスタンブールのゲジ公園が占拠され、これを支援するデモが市内で繰り広げられたとき、首相は即座に彼らを「野蛮人」と呼んだ。これは太陽花運動の学生を「暴民」すなわち暴徒と呼んだことと同じである。2005年にフランスの大都市の郊外で若者の反乱がおきたとき、サルコジ大統領は彼らのことを「クズ」と呼んだが、これも似たようなものだろう。強権的な政治が抵抗や反乱を扱う際に、こうした呼び名を使うのは珍しいことではないが、それを単なる「暴言」として忘れてしまうのは双方にとってマイナスである。このような細部にも、なにがしかの真実が宿っているかもしれない。
 これらの呼称には、ある暗黙の了解が隠れている。野蛮人には言葉が通じない、話せる相手ではないという意味である。バルバロイ、サバルタン、暴民と呼び名は異なってはいても、意味するところは、彼らに話して分かる言葉はないということだ。この呼称と鎮圧のための強権発動は表裏一体であり、実際イスタンブールでもサンパウロでも台北でも血が流れるのはその瞬間になる。ささいな一言は危険な一言なのだが、実はそこにこそ民衆が声を上げる意味がある。声を上げるのは、何よりもまず、民衆が言葉を持っているということを示すための行為だからである。(p.61-62)


最近のニュースで言えば、安倍晋三が都議会選挙の応援演説で、安倍に抗議する人々に対して「こんな人たち」呼ばわりしたということが現在も問題とされていることが想起される。報道などでは、(全体の奉仕者である)行政のトップである首相が自分に反対する人を排除するような物言いをするのが問題だなどとされているが、こような指摘では何かしっくりしないものが残る。むしろ、本書で指摘されているように、「こんな人たち」とは話をしても通じないのだから、話をせずに、閣議決定でやりたいことを決めてしまい、国会では質問されても正面から答えずに時間を稼いでから数の力で強行採決すればいい、というようなことをやろうと思えばできるような権力を与えられている者がこの発言をしているということが問題視されるべきであろう。代議制民主主義の民主的要素も自由主義的要素も踏みにじる専制政治に繋がる言葉や認識であるということをこそ問題視すべきである。なお、トランプ大統領の粗野な発言もこうした観点から専制に繋がる要素がないかチェックしていく必要があるのではないか。

ここで問題となっているような発言をする人は、自分と意見が異なる人々に対して「言葉が通じない」と認識しているため、自身の意思を実現するには強権発動をするしかないということになる。しかし、思うに、特に昨今の右派の言説は、論理性や実証性が非常に低く、願望に基づく見解や願望に適合した内容のデマに類するものが多いため、異なる意見の者を説得することができるような代物ではない。このことも手伝って、彼等は言葉を通じさせるために必要な能力が低いため、彼等からしてみると相手方を「言葉が通じない」ものと認識してしまっている面はあるのではないか。

ちなみに、安倍内閣が第一次内閣の際には「お友達内閣」と呼ばれたことと、「こんな人たち」発言も同様に安倍の偏って歪んだ考え方に賛同する「お供代」ばかりで周囲を固め、それ以外の人々を「こんな人たち」と思っている、というのが安倍政権の一貫したスタンスであろう。森友学園や加計学園の問題も、「お友達内閣」と同じ構図がある。自分の考えに近い政治家を大臣に取り立てるという利益を与えるのと同様、復古主義的反動の思想で共鳴する森友学園や古くからの「お友達」が経営する加計学園に便宜を図るのもすべて同じところから発しているというのが私の見立てである。



 立法の議会は、語る権利を認められた者のための場所である。民衆に認められているのは、その外で、路上で語ることだ。だが議会の内部では言葉が機能せず、しかお外部では言葉が認められない。議会が占拠され、言葉を分配されていない者たちが語ることで、議会はその本来の意味を明らかにしたとも言える。(p.67)


代表として選ばれたはずの代議士たちが民衆の意見をもはや代表していないとき、民衆が言葉の場を取り戻すための方法が通常の選挙以外にも公式に用意されていると良いのではないか、という気もする。



抗議行動が拡大するときには、暴力的な解決のほうがよほど簡単で、そうなりやすい。緊張が高まれば高まるほど暴力的になるほうが「自然」であり、その意味では非暴力はこの自然な成り行きに抗して、多大なエネルギーを使わなければならない。そのエネルギーは現場における、他者を気づかう無数のアクションから生まれたのではなかったか。(p.80)


なるほど。暴力は簡単で安易であり、非暴力はより大きなエネルギーを適切に使わなければ達成できないものだということは銘記しておきたい。

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