アヴェスターにはこう書いている?
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河本英夫 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか オートポイエーシスの第五領域』(その2)

 家を建てる場合を想定する。13人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取図、設計図、レイアウトその他必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示どおりに作業を進める。あらかじめ思い描かれた家のイメージに向かって、微調整を繰り返しながら作業は進められる。もう一方の13人の集団には、見取図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。……(中略)……。

 ここには二つのプログラムが、比喩的に描かれている。認知的な探索プログラムは、前者の第一のプログラムに相当する。そのため対象を捉えるさいには、第一のプログラムにしたがう。それが認知や観察の特質であり、目的合理的行為を基本とする。ところがシステムそのものの形成運動は、後者の第二のプログラムにしたがっている。
 ……(中略)……。
 一般的に考え直すと、第一のプログラムは、人間にとってとても根深いもので、現に人間の行為がほとんどそのように営まれていることからみて、行為のなかに染み込んでしまっている。このプログラムにしたがって作動しているのは、大まかな区分によれば、知覚、言語、思考である。いずれも線型性を基本としている。知覚のなかに含まれる志向性は、ここから向こうへ向かう傾向をもち、その特質の形式性をフッサールは、ノエシス-ノエマのような線型の関係として取り出している。いずれも対象や現実をわかることを基本にしており、わかってから二次的に行為もしくは行動に接続される。また第二のプログラムにしたがって作動するのは、感覚、感情、身体、行為、その他のいっさいの形成運動である。身体の形成や行為の形成を本来第一のプログラムで教えることはできない。しかし教育の多くの現場では、誰にとっても同じ解答が得られ、同じような手順を踏んで、同じ結果が出せることが基本になってきた。これは能力の形成でいえば、知覚、思考の形成には適合的であっても、他の能力の発現を大幅に抑制している。(p.136-139)


線型と非線型で対比している点がなるほどと思わされた。時間の観点から対比すると、後戻りできるかできないかという違いで言い表しても良いかもしれない。



 オートポイエーシスの構想では、言葉で記述されたものに対して、それがどういう経験をすることなのかが問われている。オートポイエーシスにかかわる経験をもたないのであれば、意味理解、意味の配置、意味内実の構文論的表記のような言語にかかわる理解に行きついてしまう。言語的理解では、ある意味でわかった途端に終わってしまう。つまりそこから一歩も進めないのである。(p.350)


自分で実行することは簡単にできるのに、それを人に教えようとする場合、どうしてもうまく伝わらない。できるように伝えることができない。こういうことが私の場合よくある。上の引用文で言えば、第一のプログラムに変換した後の言葉を語ってしまっているのではないかと思う。教えることが成立するためには、第二のプログラムに沿った言葉で語り、かつ、相手がそれを言語的ではない理解をしなければならない、ということだろう。

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