アヴェスターにはこう書いている?
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河本英夫 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか オートポイエーシスの第五領域』(その1)

片麻痺患者本人はそれぞれかつてのように、思うように歩くことはできないとわかっている。歩行の感触が異なることには気づいている。だが何がおかしいのか、どこがおかしいのかに気づくことはなく、また多くの場合おかしいという感じもない。……(中略)……。そうだとすると障害を克服しようとする脳神経系の治療では、到達目標は結果として後に感じ取れることであっても、あらかじめ目標にすべきことではないことになる。またそれを目標にしたところで、それがどうすることなのかがわからないのである。ところが治療目標を欠いたのでは、個々の治療手順さえ決めることができない。プロセスを含んだシステムの作動には、こうした固有の難題がつねにつきまとっている。ここにはいくつものパラドキシカルな事態が含まれている。
 ここに視点の移動を組み込んだ工夫が必要となる。たとえば損傷への治療目標は、外的に設定される。それは障害者当人にとっては、自分自身の目標でさえない。治療プロセスにあっては、この目標は括弧入れされ、個々の治療プロセスの継続が、結果として目標に到達するように設定することが必要となる。これは必要な条件を代えれば、すべての学習に当てはまることである。こうした視点の移動を組み込んだ行為の形成を構想するためには、自己組織化やオートポイエーシスの仕組みをたんに理論モデルとしてではなく、経験の仕方そのものに内在する機構として活用することが必要となる。(p.27)


目標は観察者の視点から設定しつつ、治療(学習)プロセスは行為者として継続していくといったところか。治療に関する工夫は学習にも当てはまるという指摘を受けて、自分でできることと人に教えることとの違いも、この二者の切り替えと関係しているのではないか、ということに気づいた。

自分ができるかどうかは、上記の視点の切り替えを自然に行うことができ、かつ、行為者として学習プロセスを継続できるかどうかが問題となる。これに対し、教えることができるかどうかは、この視点の切り替えの場面や方法などを気づかせたり実行させたりすることができるかどうかにかかってくる部分が大きいように思う。やはり両者(できることと教えられること)にはいろいろと大きな違いがあると考えるべきだろう。



 第三にじっと見る、しばらく見続けるような場面での焦点的注意がある。細部を細かく見るのではない。ただじっと見るのである。これは見えるもの、見えるはずのものが立ち現れてくるまでじっと佇むことに近い。「佇む」という動作は、今日ほとんど消えてしまっている。そのためあらためて獲得しなければならないほどである。意味的にものごとを理解してしまう場合には、作品に対して配置をあたえるような理解をして、それでわかったことにするというのがほとんどである。この作法は作品に対して、経験の速度が合っていない。あるいは作品を経験せず、理解と配置だけで通り過ぎてしまうのである。焦点化は、既存の見方、視点、とりわけ視覚的な理解を括弧に入れ、出現するものの前で経験を開くことである。(p.73)


意味的に理解することと佇んで経験すること。確かに前者に比べて後者のような姿勢は私自身の生活を省みた時、圧倒的に不足しているように思う。私も「佇む」ことを獲得しなければならない。



能力の形成の段階とは、獲得した技能が内化され、自動化するようなシステム的な平衡状態の獲得に他ならず、そこには能力そのものの組織化の一面がある。つまり観察者から見て停滞の時期は、獲得された技能や知識の再編的な組織化が起きており、システムそのものにとっては、欠くことのできないプロセスなのである。(p.120-121)


スポーツにおけるスランプの時期などもこうしたことが起きているのだろう。



 発達の段階区分には、区分の成立そのものに抑制機構が関与していると思われる。余分な動作や運動のさいの余分な緊張が消えて、いつ起動してもおかしくないが通常は抑えられている広範な行為起動可能領域が存在すると予想される。抑制機構は、生命の機構の基本的な部分であり、発達の段階が生じるのは、こうした抑制機構の形成が関与していると考えてよい。抑制は、化学的プロセスのフィードバック的な速度調整のような場面から始まっており、一挙に進んでしまうプロセスが抑制機構をつうじて遅らされていることが基本である。これは選択肢を開くという意味で生命一般の特質でもある。この遅れは、生命のプロセスのなかに選択性を開くための必要条件となっている。この場合、発達論の基本は、どのようにして次々と能力が形成されていくかだけではなく、あるいは能力が次々と付け足されるように再組織化されるだけではなく、抑制的な制御機構が何段階にも整備されてくるプロセスでもある。抑制的な制御機構は、観察者からは見落とされがちだが、システムそのものにとっては欠くことのできないプロセスである。(p.121-122)


何かができるようになるとき、実行しようと能動的に働く側の仕組みにばかり注意してしまいがちだが、この時、同時に抑制的な制御機構も働いている。スポーツの最高のプレーが出来ている時、そこには意識的な動作はあまり前面には出てこない。意識して調整するのではなく、意識のより潜在的な部分で調整されている。ここで注目されている抑制機構は、こうした場面においては「意識的な意識」が抑制されていることとも関係している。

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