アヴェスターにはこう書いている?
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竹内洋 『立志・苦学・出世 受験生の社会史』

 志望校の入学試験に合格するための学校ということであれば、すでに明治10年代前後にもみることができる。東京英語学校や共立学校、成立学舎、独逸語学校などがこれである。これらの学校は東京大学予備門やその後身の第一高等中学校(高等学校令により明治27年、第一高等学校と改称)などに入学するための受験指導の学校だった。(p.27)


初期の札幌農学校の入学生は東京英語学校から来ていたが、東京英語学校はさらなる進学のための準備をする学校だったということか。



 江戸時代の上昇移動の野心は身分によって分節化されていた。そのことは武士が、「立身」を、町人が「出世」という言葉を使ったことと、その意味内容が異なっていたことにみることができる。武士が立身を使ったのはかれらの下位文化が儒学によって、町人が出世を使ったのはかれらの下位文化が仏教によっていたからである。(p.45)


武士と町人で下位文化が異なっていたというのは、中国の儒教と道教の関係とも似ており興味深い。



 幕末から業績主義による人材登用の気運が強くなったが、能力や業績の客観的基準が確立していたわけではない。西洋の知識(実学)をもっている者が人材登用される道が開けたが、その種の判断は登用者の恣意的基準によっていた。人材選抜の合理化Ⅰ(横軸のシフト)はおこったが、合理化Ⅱ(縦軸のシフト)は不十分だった。台頭してきたのは、業績主義と恣意性の領域が大きい組み合わせの類型Ⅲの選抜様式である。
 このような状態は明治20年ころまで続く。行政官吏の任用は上司の気儘な判定とコネや情実、藩閥の絆などの混合したものであった。(p.52)


北海道の開拓使の事例を見て、初期の高官は旧薩摩藩の藩閥によるものが多いことには私も気づいていたが、これが当時の全国的な傾向であったことがわかった。



 しかし、問題は、そういうイデオロギーがあまねく受容されているわけではないことである。学力エリートとノン・エリートによって分節化されて受容されていることだ。学力上位層の生徒と保護者は「勉弱」をよしとする冷却イデオロギーをあくまで顕教(タテマエ)として受け入れた。『プレジデント Family』(雑誌)などの学力アップや進学作戦本が、大卒エリートサラリーマン家庭でよく読まれてきたことにみられるように、大卒エリートやその予備軍は学力大事を密教(ホンネ)としたのである。学力下位層の生徒と保護者には密教の余地を残さずもっぱら顕教としてひろがった。
 冷却イデオロギーが学力ノン・エリート消費用の顕教となり、学力大事が勉強エリート専用の密教になったころから、生徒の階層による教育格差や学力格差がいわれるようになる。冷却イデオロギーが学力階層や保護者の階層によってどう受け止められたかが違ってきたのだということを補助線にすれば、まことにつじつまの合う帰結である。
 学力中間以下層の学力不振にさらに追い打ちがかけられた。基礎学力や知識量などで測られる学力は旧い学力であり、ポストモダンの学力は生きる力や個性、創造性、能動性などであるとされた。新しい学力観にもとづいて、学校は座学から討論型授業、総合学習、体験学習などをそろえた。「コミュニケーション・コンピテンシー」などが新しい学力だとされ、旧来の学力観では、新しい社会のなかで成功し、新しい社会を機能させていくことは不十分であるとされはじめた。このような新旧学力観も学力階層によって分節化されて受け止められた。学力上位層は両者を断絶したものではなく、連続的にとらえたが、旧来の学力は時代に適合しないという雰囲気だけに惑わされがちだったのが学力下位層である。(p.194-195)


学力上位層と下位層で勉強や学力に関する言説が別様に受容されたという指摘は興味深いものがある。学力より「生きる力」が大事だとか勉強ができることは他のことと比べてそれほど重要ではないといった類の言説に対しては、必ずしも妥当なものとは思えない感覚が私にも若い頃にあった記憶がある。その後も、学力は大事だというのはいろいろな場面で感じており、そうした経験からも、ここでの指摘には腑に落ちるものがある。ただ、この指摘の内容についてはデータで示してほしいところではある。



英国の教育社会学者ポール・ウィルスは、英国の筋肉主義的な労働者階級の子弟である「野郎ども」は、落ちこぼれてしまうのではなく、「ちまちま勉強するなんて女々しい野郎だぜ」と積極的に落ちこぼれを選択することによって階級の再生産を担ってしまうとした(『ハマータウンの野郎ども』 熊沢誠・山田潤訳、ちくま学芸文庫)が、日本の学力下位層が「世の中気合いとコミュ力」と学力格差を気にせず、貧困の中に入っていくとしたら、あの野郎どもの再生産メカニズムと機能的には等価である。英国型が「抵抗」による階級の再生産への加担とすれば、日本型は社会的成功と学力・学歴は無関係という「誤認」による階級の再生産への加担といえよう。(p.195-196)


社会的成功と学力・学歴が無関係であるという考え方が「誤認」であるということをもっと前面に出していく必要はあると思う。さらには、学力・学歴が生まれによって規定されている面があり、これを社会的に是正する必要があるということも同時に主張する必要がある。

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