アヴェスターにはこう書いている?
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越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その3)

 明治初期の初等学校の建設が、しばしば地方における洋風建築伝播のさきがけとなったことが知られている。北海道でも同様であったように思われる。
 ……(中略)……。日本海沿岸の有力都邑では、明治11年以降ようやく本格的な洋風小学校が建てられるようになったのである。
 ……(中略)……。
 これらの小学校建築は、基本的には開拓使の――後志の五小学校は札幌本庁の、江差は函館支庁の――設計と考えられる。ただし『開拓使事業報告 第二編 家屋表』にはいっさい記載されておらず、通常の開拓使営繕事業とはされていない。いずれも「公立」学校であって、建設および学校経常費は住民の寄付によった。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 量徳以下、後志地方の小学校の、特にポーチまわりのデザインは、札幌本庁の洋風建築の特質からはやや異質に思われる。学校建設の資金が住民の直接負担であったこと、つまり建築主体の過半が地元にあったことが、建築の意匠に反映したということも考えられよう。ただし小樽量徳、江差柏樹の両学校は、開拓使が地方都市に洋風の小学校を普及させるためのモデルとしてもくろまれたはずで、明治11年11月26日の竣工開業式に黒田開拓長官、調所大書記官以下が臨場したのはそのことを示している。翌12年以降の余市、岩内、古平、美国は、開拓使直接の設計というよりは、小樽をモデルとして建てられていったのではないかと思われるのである。(p.318-321)


いろいろと興味深い一節。

公立学校の建設や運営の経費が住民の寄付によるというのは現在の常識とは全く異なっており驚くところである。

小樽量徳小学校と岩内の小学校の写真を見たとき、あまりの類似に驚いたことがある。この件を読んで、その理由がよく理解できた。



桧山郡役所遺構は明治20年の創建であるが、この庁舎も、岩内などと同様警察署を併設していた。明治19年12月の北海道庁官制改正により、植民地での便宜的制度として、郡区長は警察署長を兼務することとされたのに従ったものである。(p.322)


確かにこの遺構には警察署としても使われていたという解説があった記憶があるが、そのことの背景がよく分かった。



これらから推して、日本海沿岸部の漁家建築に見られる「軒コーニス」は、開拓使期の函館の洋風建築をルーツとし、海路をつたって伝播していったと考えてよいであろう。(p.329)


北海道の日本海沿岸部の漁家建築は幾つか見たことがあるが、あまりコーニスなどに注目したことはなかった。この観点から見直してみたい。



泊村田中家住宅(明治30年。現小樽市。図16-7)がこれと類似の事例である。田中家は全体としては切妻の雄大な大屋根をかけた伝統的様式の民家であるが、正面左手、和風の真壁のなかに三箇所だけ縦長のガラス窓があけられている。(p.330)


田中家住宅は現在小樽市に移築されており、「鰊御殿」として知られる建物であり、私も何度も訪れたことがあるが、この点は全く気付かなかった。しかし、本書の写真を見ると確かに縦長の窓が三つ並んでいる。


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