アヴェスターにはこう書いている?
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越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その2)

 軒飾りは持送りを並べる形式である。……(中略)……。このような持送り形式は、やはり開拓使建築の後半期にめだつもので、札幌農学校演武場と同じ系統のデザインである。(p.200)


豊平館についての記述だが、豊平館の軒飾りと札幌農学校演武場(現・さっぽろ時計台)のそれが同系統のデザインだとは気付かなかった。



 西側一、二階の広間および前室には、計六個の暖炉が設けられていた。昭和33年移築時に大半が撤去され、二階広間前室に一個のみが――六個の部材を寄せ集めてつくっていた――遺存していたが、昭和61年修理で、形だけではあるが旧状に復原された。マントルピースの装飾、仕上げは磨き漆喰で、鼠漆喰上塗り表面に黒漆喰を斑にぼかし磨いて、大理石模様をつくりだしている。天板mantel shelfのみ白大理石(寒水石)を使用している。(p.204-205)


これも豊平館についての記述だが、私も今年2017年に豊平館を初めて訪れたのだが、この暖炉は非常に印象に残っている。一見、大理石風の暖炉なのだが、質感が何か違うと感じさせたので、よく見ると漆喰を磨いてつるつるにしたものを大理石風に見せていたことを見て驚き、印象に残った。本物の大理石で作ったものの方が確かに高級感はあると思うが、工夫を凝らして作られたものには、見るものを感動させる力があると感じた。



 一般商店の階数は『盛業図録』で49棟中37棟、『明細図』では100棟中80棟が二階建てであった。函館が九割強、札幌が五~六割強であったから、その中間程度の市街密度であったことになる。(p.303)


明治20年代前半の小樽の市街地についての記述。二階建ての建物の割合によって市街地の密度を推定するというのは、興味深い見方である。



 港、入船町はその後も商業街のひとつとして継承されていくが、小樽全体の都市中心としての地位は過渡的なものであった。明治13年、手宮に石炭積出桟橋と幌内鉄道が完成し、これによって都市活動の中心は北寄りへ強力に引きよせられていくことになったからである。
 明治22年、堺町立岩から手宮鉄道事務所まで、つまり色内町地先海岸の埋立てが竣工、北浜、南浜町が成立し、船入澗が新設された。25年には早くも両浜町の地価が港町を抜いて第一位になっている。
 『盛業図録』『明細図』はちょうどこの時期、港、入船町の市街成立から色内、両浜町の形成へと転換する過渡期をあらわしている。……(中略)……。
 小樽の木骨石造店舗は、函館の洋風防火造商家がその立地や商種を反映していたほどに、くっきりとした傾向を示すわけではないが、それでも信香、山上町などの旧市街には少なく、入船、港、色内などの新市街に多く建てられたことは読みとることができる。また、初期の石造店舗は、米穀、海産物、回漕業など、小樽経済の基幹をなしたであろう豪商に多い、ということはできよう。(p.307-308)


小樽の中心地は、信香、山上町などのあたりから(明治10年代頃?)港町、入船町へと移り、さらに(明治20年代以降)色内、北浜・南浜町へと海岸に近い地域を順次北上していく。さらに函館本線と手宮線が繋がる頃であろうか、山の方へも市街地が拡大して稲穂町のあたりも開けてくるというような流れで展開したと考えられる。

時期の区分などは(上には曖昧な記憶で書いた部分もあるため)もう少し検証しなければいけないが、基本的な流れはこのように理解してよいだろう。小樽の港は、北側の方が波も高くなりにくく、港としての適性が高かったという地理的な要因が背景として効いているように思われる。



 前節で見たように、木骨石造の小規模な事務所建築は明治20年代中頃にはあったと思われるが、小樽新聞社のような中層の規模、形式を整えたものが建てられるようになったのには、明治39年の日本郵船小樽支店(佐立七次郎)や明治40年の小樽郵便局など、本格的様式をそなえた事務所建築の出現が刺激となったであろうと考えられる。(p.313-314)


中層の木骨石造の事務所建築が建てられたというのは、小樽の特徴の一つのようである。明治40年代頃に建てられたものがよく知られており、大正半ばに鉄筋コンクリートが普及するまでの僅か10年余りの期間のことであったため、現存する事例は少ない。

小樽市内で現存する建物で、こうしたものの事例として紹介できるものは、第百十三銀行がそれにあたるということが、本書を読んで理解できた。



なお浜益村濃昼の漁家木村家番屋の倉庫が木骨煉瓦造で、煉瓦は半枚積みであった。創建は明治30年前と推定されている。木村家の本拠は小樽にあって、この建物も小樽の系譜につながるものと考えてよいであろう。(p.316)


浜益村は現在は石狩市の浜益区になっているが、木村家番屋はまだ現存しているようだ。公開はしていなさそうだが、機会があれば見てみたいものである。この地区の近くには同じ頃に建てられた白鳥家の番屋もあり(現在、はまます郷土資料館として活用)、白鳥家も小樽にいたことが想起される。鰊漁の漁場として連続性があるからであろうか。



 このような木骨モルタルないしコンクリート造は、大正以降施行された鉄網モルタル造の応用であり、小樽特有の構造手法ではないが、小樽ではちょうど木骨石造が衰退するのと期を一にしてあらわれるように思われ、明治期の木骨石造の代替構造という性格が指摘されるであろう。(p.317)


この類の建築はあまり残っていないかもしれない。

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