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アヴェスターにはこう書いている?
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北海道 『北海道の古建築と街並み』

 「えぞ地」が「北海道」と改称された明治初年、本道の町まちは、石置き屋根一色であった。……(中略)……。
 石置き屋根は、江戸末期には、東北・北陸の日本海沿岸地帯に、とくに広く存在した。本道の石置き屋根の母型は、これらの地方の民家にある。本道と同地方との交流の歴史関係から見て不思議のない話だが、明治改元前後の本道の住民の多くは、こうした家屋形式しか知らなかった。大工の大半もまた、これ以外の家屋形態を造る技術をもってなかった。つまり、当時の北海道が、裏日本の経済、生活文化、建築技術の支配圏下にあったことから生ずる、当然の姿であった。(p.29)


確かに明治初期の北海道の民家には石置き屋根が多い。これも東北や北陸に由来するものだったと分かったのは収穫。ここにも当時の一般の移民は東北や北陸から来た者が多かったことが反映している。



 函館・札幌両都市の建築洋風化方向は、対照的である。函館のそれは商館を主体とする民間主導型とすれば、札幌は開拓使関係施設に限定された官庁主導型である。函館が在野建築家による設計であるのに対して、札幌は官僚建築家の設計である。函館の作品のスタイルは、和洋折衷を基調とし、他地域の擬洋風建築と共通感覚のものが多い。これに対して札幌のそれは、米国木造建築様式を祖型とするものにほぼ統一され、同時期の道外他都市に例をみない、高い純度をもつ。また、函館では防火建築への強い志向がみられ、レンガ造、石造、土蔵造でカワラ葺きの建物が相当数出現する。これに反し札幌では、木造マサ葺きの構造形態から脱却できず、防火に対する配慮が希薄であった、という対照も見逃せない。(p.30)


この比較対象は興味深い。いずれも両都市の歴史的特質から説明できるように思われる。函館は幕末の開港地として他地域に先駆けて洋風化の条件を持っていた地域であるだけでなく、それ以前からある程度の人口があった。これに対し、札幌は開拓使が置かれてから開かれたのに近く、明治初年の人口はごく限られたものだった。それぞれの地域の民と官との力関係を見れば、民の力が大きい上に行政の中心でもない函館と民の力が小さい上に行政の中心とされた札幌という対比が見出せるが、そのことが建築にも素直に反映している。また、防火への志向の違いも、函館は地形的な要因(風の強さなど)もあるが都市内部の家屋の密度が高かったのに対して、札幌は明治期には密度が低かったということが反映していると考えられる。

もしかすると、北海道の沿岸都市と内陸都市に同じような対比がみられるかもしれない。この視点から比較してみると面白そうである。今後の研究課題のひとつとしたい。



 本道が板ガラス使用の先進地であった、という意外な事実がある。寒冷な気象条件を克服する好適な建築材料として、明治20年代から、紙障子や板戸を駆逐して、民間建築にも積極的に使用され、その外観を大きく変えてゆく。ストーブの導入に伴う煙突の付設も、本道以外の民家では見ることのできない外形要素である。板ガラスの使用と並び、道内建築にユニークな印象を与えてゆく。
 こうして北海道の建築風景は、道外のそれとはまったく別個の風趣をもつものに、変貌する。(p.30)


板ガラス使用の先進地というのは気付かなかった。確かに明治39年竣工の旧日本郵船小樽支店ともなると二重ガラスが採用されるなど、防寒対策がかなり進んでいたことが見て取れるが、それは20年代からの蓄積の上に出て来たものと言えるのかもしれない。

道外の建築風景とは異なるものとなったという指摘は、先に引用した石置き屋根の家屋が東北や北陸の影響下にあったのに対して、そうした影響から脱して独自のスタイルを形成したということを意味する。これは明治30年前後のことと見てよいだろう。



 明治30年代後半期はまた、北海道経済の中央従属化が顕著となった変革期でもある。同時にそれは、“北海道建築”が中央建築体制の一環に組み込まれたことも意味する。建築における中央との同質化傾向が、この時期以後助長されてゆく。中央の金融・産業資本の本道進出に伴って、中央の建築家の作品が道内に出現する。その結果、第1期、第2期の都市景観が、どちらかといえば対照的に、この時期以後のそれは、すこぶる多彩となってゆく。(p.30)


確かに先ほど言及した旧日本郵船小樽支店も佐立七次郎により設計されたものであったし、明治45年竣工の日銀旧小樽支店も辰野金吾や長野宇平治などが設計している。こう見て来ると確かに中央の建築家が進出してきたというのは、面白い見方である。

ただ、明治初期の北海道で活躍した建築家としては、豊平館を設計した安達喜幸などが想起されるが、彼は江戸出身であり、工部省から開拓使に配属された。安達は開拓使に所属していたことから、あまり道外から来たイメージでは語られないが、もともとは道外から来た人でもある。その意味では函館と札幌の対比が先ほどなされていたが、札幌の系譜は基本的に道外からの技術がもともと基本となっていたという見方もできるのではないか

とはいえ、(明治初期からの)政府によるものか(明治30年代後半からの)資本の進出に伴うものかという違いは残るかもしれない。



 函館、小樽のこうした都市景観は、道内としてはむしろ例外ともいうべきものである。他都市のそれは、札幌を含めて、木造建築の世界である。(p.31)


函館と小樽は大正期からは鉄筋コンクリート造などの不燃造建築が多く建てられたが、他の都市は木造建築が主体のままだったという指摘。



 当時は、鉄筋コンクリート造の黎明期で、多様な構造が存在した。そのため、銀座街には、こんにち存在しない構法の建築が多数建てられ、その一部が現存する。つまり銀座街は、“鉄筋コンクリート造歴史館”の感があり、貴重だ。(p.226)


函館における大正10年の大火後のこと。本書は1979年のものであるが、ここで指摘された「鉄筋コンクリート造歴史館」という状況は現在にも当てはまるのかどうか気になるところである。

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