アヴェスターにはこう書いている?
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山谷正 『さっぽろ歴史なんでも探見』

 北海道に玉葱が入ってきたのは明治4年(1871)、開拓使がアメリカから輸入した種子を札幌官園(現在の北区北6条西6丁目付近)で試作したのが始まりで、その後札幌村でも小規模の玉葱栽培が行われるようになった。(p.85-86)


北海道ではなく日本全体で見た場合の玉葱の導入はどうだったのだろう?

西洋野菜の日本における普及は、食文化の歴史的展開を見る上で興味深いテーマだと思っているが、なかなかこうしたテーマを掘り下げて語ってくれる本がないのが残念である。



 昭和17年(1942)、当時の軍が農地約250㌶を買い上げ、学生や市民と強制連行の朝鮮人労働者を使って陸軍飛行場として建設させたものだ。そのため、太平洋戦争末期には米軍飛来機の攻撃目標にされ、爆撃をうけたこともあった。(p.89)


札幌の丘珠空港についての記述。軍事に関わると攻撃を受ける。広島や長崎が原爆投下の対象となったのも同じ理由が含まれていることは忘れてはならない。



 この建物は大正以降に流行したマンサード屋根を使った洋風住宅の先駆けとなったもので、大正2年(1913)に現在の北区北12条西3丁目に建てられた。(p.135-136)


現在は芸術の森に移築された有島武郎の邸宅についての既述。マンサード屋根が大正以降に流行した理由はなぜだろうか?

この時期のマンサード屋根と言えば、明治39年の旧日本郵船小樽支店が想起されるが、この建物はその近くに建つ建物に強い影響を与えたようで、いろいろな建物がマンサード屋根になっている。また、明治42年の古河記念講堂もマンサード屋根である。このように北海道の明治末期には、マンサード屋根がある程度使われ始めていた。大正期という中間層が育ってきて生活が洋風化していった時期に、個人邸宅にも使われるようになったということだろうか?



 しかし、簾舞地区の本格的な開拓は、明治21年(1888)に旧札幌農学校第四農場が開設された時に始まる。(p.139)


第四農場が南区にあったのは何かで読んだことがあるが、簾舞地区だったのか。跡地は現在、何になっているのだろう?



 昭和30年(1955)に旧琴似町と篠路村が札幌市に合併されたが、この頃から新琴似、屯田、篠路地区の市街化が進み、それまでの農業や酪農地が次第に姿を消していった。(p.150)


第二次大戦後の復興から立ち直り、高度成長へと移る頃、札幌が大きく変わっていったことが分かる。札幌の発展と反比例するかのように小樽の斜陽化が進む。これは一体の現象であろう。



 かつて帝国製麻琴似製線工場があり、麻布の生産が行われていた麻生、亜麻事業の名残が町名になっている。
 昭和53年(1978)、地下鉄南北線(北24条~麻生)が開通してからは急速な発展をとげ、麻生駅周辺は一大商店街となった。(p.163)


麻生の地名は確かにアイヌ語っぽくないが、その土地で行われていた産業が「そのまま」地名になるのが面白い。

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