アヴェスターにはこう書いている?
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北村崇教、本郷敏志 監修 『北海道「地理・地名・地図」の謎』

 北海道の地名の多くがアイヌ語に語源を持つことはよく知られているが、そのアイヌ語由来の地名の多くが「川」に関するものだということはあまり知られていない。これはアイヌの人々の生活の中心に「川」があったことによる。アイヌの人々にとって「川」は重要な食料のありかであり、通行のための道でもあり、地域の目印としての役割も担っていたため、その特徴を示す名前がつけられたのだ。(p.12)


言われてみれば、確かに川や水に関係する語源が多い。本書が指摘するように、「●●別」はアイヌ語の「ペツ」に由来し、「●●内」はアイヌ語の「ナイ」に由来するが、いずれも川である(ペツの方が比較的大きな川で、ナイは小さな川を指すことが多いらしい。)。



 1890(明治23)年に、現在の砂川・歌志内に奈江村が設置されているが、同じころ、砂川がオタシナイと呼ばれていたという記録も残っており、1891(明治24)年に北海道庁から刊行された「北海道鉱床調査報文」のなかの地図で現在の砂川市街は「歌臼内」と表記されている。音訳と意訳の両方が現在の砂川市を指す名称として使われていたのである。音訳と意訳を使い分けるようになったのは1891(明治24)年の鉄道開通の際に、砂川駅と歌志内駅が設置されたのがきっかけである。(p.36)


砂川と歌志内は「オタウシナイ」の意訳と音訳であるという。鉄道の駅が地名を決めるというパターンが結構見られるようだ。北海道の場合、開拓の進展と並行するようにして鉄道が普及していったため、地名をつける時期と鉄道の駅を設置する時期が重なっていたことが駅名が地名を確定させる効果を持ったのではないか。



1874(明治7)年に制定された屯田兵制度は、明治維新後の廃藩置県で失職した武士たちの救済策でもあった。そのため屯田兵への応募は当初士族出身者に限られていたのだ。士別は、この屯田兵が開いた最後の町なのである。(p.38-39)


武士が開いたから「士」をつけているという説。



 曽田氏は北海道の北見・札幌、千葉、長野、岡山の五ヶ所で栽培を試みた。そのうち札幌で育てたラベンダーが発育状態や色、香り、すべてにおいて最良だったために、1940(昭和15)年に、札幌市南区南沢に農場を作って栽培を開始したのである。つまり、ラベンダー発祥の地は、富良野ではなく札幌だったのだ。
 農場設置から二年後、曽田氏は日本初のラベンダーオイル抽出に成功している。
 戦時中は、食糧増産のため、多くの畑が転作を余儀なくされたが、戦争が終わると、ラベンダーオイルの生産が本格化し、南沢のラベンダー園には周辺から多くの見物客が訪れるようになったという。
 やがてラベンダーの苗は、富良野をはじめとする北海道全土に移植され、北海道のあちこちで花を咲かせるようになった。ところが、昭和40年代にラベンダーオイルの輸入自由化が決定すると、ラベンダーオイルの価格は急落。ラベンダー園は次々と閉園に追い込まれてしまったのである。
 札幌の南沢ラベンダー園も1972(昭和47)年に閉鎖され、富良野のラベンダー園も、わずかひとつが残されるのみだったのが、1976(昭和51)年、国鉄(当時)のカレンダーに富良野のラベンダー畑が採用されたことで一躍その存在が全国に知れ渡り、多くの観光客が訪れるようになったのだ。以後、富良野ではほかのラベンダー園も復活し、今では観光の目玉となっているのである。(p.48-49)


ラベンダーを栽培してオイルの生産をしていたが輸入自由化でラベンダー畑が閉鎖されていく中、国鉄のカレンダーをきっかけに富良野のラベンダーが観光産業としてブレイクしたという流れは興味深い。



 しかし、同じように欧米に倣ったとはいえ、札幌と旭川や帯広では、街の様子が少し違っている。旭川や帯広には、碁盤の目のように南北・東西に伸びた道路とは別に、斜交する道が組み入れられているからだ。
 この違いは、札幌の建設を担当した開拓使判官の島義勇が、当初、中国の長安や日本の平安京のような東洋風の街をイメージしていたことによる。ところが、島は1870(明治3)年に罷免され、当時開拓使のトップだった岩村通俊がアメリカ式の都市計画を推し進めた。そのため、札幌は、東西路は「南一条」、南北路は「西一丁目」といった京都風の名称がある一方、当初は道に「札幌通」や「石狩通」といった名前をつけるアメリカ風のネーミングが採用されるなど、和洋折衷の様相を呈していたのである。
 一方、旭川や帯広は、全面的にアメリカの都市をモデルとして造られた町だ。それは、これらの町を計画したのが、アメリカのミシガン大学、ニューヨーク大学で学んだ経歴を持つ時任静一という人物だったからである。(p.86)


これも面白い。「札幌通」などの名称が「アメリカ風」というのは今まで気づかなかった。



 北海道は炭酸飲料の消費が非常に多い土地である。2008(平成20)~10(平成22)年の一世帯当たりの炭酸飲料の年間消費額は、札幌市が4165円で全国二位。全国平均の3276円を大きく上回る結果である。(p.136)


これは何故だろうか?



 明治はじめの開拓期、多くの欧米人が開拓に協力するために北海道を訪れている。その影響で札幌近郊ではキリスト教がよく広まっていたという。そのため、キリスト教由来の行事であるハロウィーンと七夕が混ざり合って「ろうそくもらい」の行事ができあがったのではないかというわけである。(p.138-139)


興味深い説。



 そもそも北海道の主要道路は、未開拓地を整備していった関係で、家々が集まり町になったところに道路をつくったのではなく、道路をつくったところに人や家が集まって町を形成してきたという歴史がある。そうした事情から、北海道には広くてまっすぐな道が多いのである。(p.166)


なるほど。



とくに上川方面の開拓を早く進めたいという目論見があった北海道庁では、上川方面の開拓をスムーズに進めるためにも上川道路(国道12号線)の建設が急務であると判断したのだ。こうして樺戸集治監の囚人500人が動員され、国道12号線の原形となった上川仮道はわずか95日間で完成している。(p.167)


思うに上川方面の開拓を早く進めるというのは、北海道という島の支配を固める(ロシアの南進に備える)にあたっての軍事的な必要性があるという判断に基づくものと思われる。なお、囚人労働が北海道の開拓でもそれなりに多くあったということはよく銘記すべきことである。

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