アヴェスターにはこう書いている?
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越野武+北大建築史研究室 『北の建物散歩』(その1)

ドームは本庁舎のもとの設計にはなかったのだが、初代道庁長官(開拓使では判官だった)岩村通俊の横ヤリで付けくわえられたらしい、と想像されている。
 これがまったく無茶な設計変更だったことは、構造を見ると一目瞭然だ。ドームといっても、その下部は径7㍍余、高さ12㍍ほどの重いれんが壁(ドラムという)が建ちあげられている。なんとこの壁を支えるべき下部構造が存在しないのである。……(中略)……。そんなことでまともな構造になるはずもなく、果たして数年後にはガタガタになって撤去されてしまった。
 ……(中略)……。
 今のドームの構造はどうなっているか?実は目立たないように鉄筋コンクリートの構造で脚部を支え、その上に軽い鉄骨のフレームを組んで、薄いれんが壁を張りつけているのだが、こんなタネ明かしは興ざめですね。(p.44-45)


北海道庁旧本庁舎について。ドームは最初は設計に入っていなかったというのは本当だろうか。ただ、最初のドームは維持できなかったというのは有名な話ではあり、この原因は支えるための構造が欠けていたからだというのはそうなのだろう。



住宅の建て主、小熊捍も太秦康光も北海道帝国大学理学部の教授であった。田上のような初期のフリー・アーキテクトの手になるモダン住宅が、こうした知識人パトロンによって支えられた事情がよく分かろう。(p.50)


小熊邸(移築して現存)は昭和2年、太秦邸(現存しない)は昭和5年の建築。同じ頃に小樽に建てられた坂牛邸(現存)や坂邸(焼失)などのオーナーを見ると、坂牛は小樽新聞社の重役だった人であり、坂は炭鉱会社の経営者だったということからなどからすると、知識人パトロンと本書では言われているが、大学教授のような知識人だけに限られない、当時の地域エリート層がフリーアーキテクトのパトロンだったという位の言い方の方が妥当であるように思える。

大正から昭和初期という日本にとっては経済がかなり順調だった(ように見えた)時代であり、中産層的なサラリーマンなども増えていき、生活も次第に洋風化が進んでいくなど、中間層も次第に台頭しつつあったが、それだけではなく富裕層への富の強い集中が世界的に見られた時代でもある。資産によって生きる超富裕層というより、高額の給与や報酬により生活する人々の個人邸宅を田上は建てたということだろうか?当時のフリーアーキテクトのパトロンは誰だったかという問題は調べてみる価値がありそうな問題である。



 北大構内に、ローマ時代の大浴場で使われた窓と同じ形のものが見られる。えっと思われるだろうが、北大付属図書館横に建つ古河記念講堂(明治42年建築)のしかも正面意匠に堂々と使われている。中央二階の上げ下げ二連窓の上にみられる、半円形の中に二本の縦がまちをみせた窓の部分で、建築学的にはテルマエ窓という。(p.60)


古河講堂の設計に当たり、建築家は直接はどのあたりからテルマエ窓を使うというアイディアを持ってきたのだろう?当時のヨーロッパでよく使われていたのだろうか?この建築はマンサード屋根などフランス風というイメージがあるが、当時のフランスでそれなりにポピュラーだったのだろうか?



 こうした楽しさは内部でも発揮され、玄関で最初に目につくアールヌーボー風の円形欄間のサッシは、よく見ると林学の「林」という字だ。教室の両開き扉の桟は「林」だし、片開きの桟が「木」なのもご愛嬌だ。
 設計は文部省建築課札幌出張所技師というお固い職名の新山平四郎。氏は明治2年(1869年)茨城県生れ。29年に文部省入りし、36年同省札幌出張所に赴任、中條精一郎技師のもとで札幌農学校の移転新築工事にたずさわった。40年に札幌出張所所長となり、東北帝大農科大学(現北大)新築工事を42年まで担当。在任中、小樽高商(現小樽商大)本館(明治45年竣工)も手がけた。(p.62)


古河講堂についての記述の続き。林学教室として建てられたので「林」や「木」をデザインに織り込むとは面白い。

設計者の経歴も興味深い。古河講堂と小樽高商の建築が同じ設計者というのもあまり考えたことがなかった。



 小樽新聞社は、北海道のジャーナリズム史に大きな位置を占めるが、社屋も小樽における木骨石造建築の発達という視点から、大変注目すべき建築だ。倉庫や商店にひろまったこの構造が、この時期、つまり鉄筋コンクリート構造が普及する直前に、中規模のオフィスビルに適用されたのである。ただ残念なことに、移築に際して内部の木骨軸組が鉄筋コンクリートに変えられている。明治42年(1909年)の建築。(p.114-115)


 小樽新聞社の社屋は現在、北海道開拓の村に移築されている。ここを訪れた時、私もこの建物を見たことがあるが、木骨石造がいかにも小樽らしいと思う反面、変な違和感を感じたことを思い出す。本書の指摘を踏まえてその違和感の原因を言うとすれば、中規模オフィスビルに適用されていることに由来するものだった。三階建ての縦に大きな建物であることに違和感を覚えたのである。木骨石造でも大家倉庫や右近倉庫、小樽倉庫などそれなりに大きな建物は古くからあった。しかし、これらの建物の大きさの多くは大きな平面を持っているという大きさであった(大家や右近などは更に天井も高いが、全体として見れば横方向に大きい)。それに対して、小樽新聞社のように平面の面積はそれほどでもないのに三階建てという高さがある木骨石造というのはほとんど見かけない。このことが違和感を感じさせていたのである。

大正中期になると鉄筋コンクリートが普及してくるので僅か10~15年程度の期間限定の作例と言う意味では貴重な作品である。

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