アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

渡辺悌之助 『小樽運河史』

 運河はこの場合、これらの艀船を収容する波静かな溜り場であったが、また海陸運輸の通路として既存の倉庫はもとより新らたに埋立地に建つ倉庫や上屋を極度に利用すると共に従来の繋舟岸を三倍にして、荷役の能率をいちゞるしく高めた。
 然も埋立地を造成するに当って、海底の土砂を浚渫してこれに充てたから水深を増すに一挙両得であり、また工事に当っても常に運河と航路の水面を保ちつゝ一区より順次に施行したことは、倉庫・荷役の工事中に蒙る障害を軽減するものとして運河式埋立の利点とされた。(p.98)


「従来の繋舟岸を三倍」にするとは、本来の陸地にある岸、運河の陸側、運河の海側と3つの岸ができるため三倍の艀を留めることができるということだろうか。

海底の土砂を浚渫して海側に埋立地を造成したので、水深を増すというメリットもあったという。大型の船が停泊できるかどうかという点(そのための一つの要素として水深が十分かどうかという問題)は、北海道の西側の海岸を見る限りではかなり重要な問題であったと思われる。

さらに、運河と航路の水面を保ちつつ一区から四区へと順次に施行したため、工事中でも利用可能な岸が常にある状態だったため効率をあまり下げずに工事が出来たという指摘も興味深い。本書を読んで最も参考になったことの一つは、こうした一区(現在の北運河の端の部分)から四区(現在の浅草橋より札幌側の今ではほとんど埋め立てられた部分)まで順次施行されたという経過が認識できたことである。それぞれの地区に残っている倉庫や歴史的建造物の古さなどもこうした工事時期と関連している。



設計の変更五度び18年の長きに及び、工事施工に着手して更に10年、合せて28年の長年月を要した運河の出現は、遅きに失して、世界の趨勢から置き去られたのである。(p.118)


小樽運河が竣工後まもなく時代遅れのものとなったのは確かである。しばしば言われる運河方式を推奨した廣井勇の判断は、ある意味では誤っていたのではないかと私は考えている。(すなわち、彼は物流のための手段として埠頭より運河が望ましいと考えたのだろうが、埠頭方式にした方が明らかにその後の流れに適合的である。)

ただ、戦後を含めた現在までの経過から見ると、当時は思いもよらないような形で観光資源となっており、そうした町の資産を大切にしていこうとする立場から見ると、廣井という権威が推奨したものだということを肯定的に評価しようという気になることは理解できる。



 商船が入港し繋留する対岸の陸地に、貨物を収受し出荷する倉庫の必要になることは当然であるが、小樽の場合、明治14年の金曇町大火を境に町勢が西に移動したゝめ従来、勝納有幌沖に懸っていた船舶が入船川を越えた以西の手宮湾に集中するようになり、この方面に営業倉庫の群落を見るに至った。(p.123)


なるほど。



右近倉庫-図51に就いては、大正7年運河工事進捗中に動議が出て、既に埋立の了った右近倉庫前を再び掘り返えして運河にするという案が出て揉めたことは、第三章一の(三)に述べた通りである。(p.174)


小樽運河の設計と施工の間の議論のグダグダぶりは確かにかなりひどいものがある。



 仲川以南いまのトンボハイヤーの在る辺りは、もと日本郵船発祥の地として此処に船入場があり、郵船橋が架かり、周囲に郵船の荷捌倉庫(40より41にいたる11棟)が密集した処である。(p.175)


郵船の倉庫が密集というのは、この会社の当時の小樽でのプレゼンスの大きさが反映しているように思われる。



日本郵船の船入場がいつ出きたのか不明であるが、明治27年実測小樽港図7には既に見えており、おそらくは小樽支店の設置(明治18年)と共に造られたものと思われる。
 またその閉鎖埋立に就いては、市の港湾部にのこる記録として、昭和31年7月1日から18日まで、郵船澗の面積2,100平方メートルに渉って工事ひ31万7千余円で浚渫工事を行っていることから、埋立は博物館の開館(昭和31年6月)以後である。
 因みに博物館の建物である旧日本郵船小樽支店(国指定文化財)は、明治38年11月この船入澗に面して再築されたものである。(p.176-177)


現在、この船入澗は埋め立てられて運河公園として整備されているが、いつできたか不明だと言われると妙に知りたくなる。本書は今から40年近く前に書かれた本(1979年)であるため、恐らく現在は建築年代くらいは分かっているのだろう。調べてみたい。


スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1195-7316a0cd
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)