アヴェスターにはこう書いている?
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藤田文子 『北海道を開拓したアメリカ人』

 外国人の雇用にあたって、黒田はとくに「風土適当ノ国ヨリ開拓ニ長ズル者ヲ雇ヒ」いれることの重要性を強調した。その点で、日本人のイメージのなかにあるアメリカは、まさにぴったりの国だった。アメリカには北海道と似た風土をもつ地域があり、未開地開拓の経験も豊富であることを知っていた。また当時のアメリカが、南北戦争後の南部再建や国内開発に専念し、他国――とりわけロシア――との関係に巻きこまれていないことも、開拓だけでなく防衛にも大きな関心をもっていた開拓使にとっては、好都合だった。(p.23)


なるほど。前段の理由はいろいろなところで述べられているが、実際には後段の理由を前提として成り立っていたように思われる。



 ケプロンの一行が日本の発展に多くの貢献をすることは当然とみなされた。しかし、それにもまして新聞が強調したのは、日本との貿易が増大し、アメリカの産業が活発になることへの期待だった。……(中略)……。
 アメリカ人専門家を雇うにあたって、日本側の期待は、北海道の開拓に必要な知識・技術をもつ人材をえたいという具体的なものだった。これにたいして、アメリカ人の反応は多分にロマンティックで、文明の先進国として後進国を指導するという役割を甘美なものとして受けとめた。(p.26)


お雇い外国人を雇ったことについて、日本側でどのような影響があったか(何がもたらされたか)といったことはしばしば語られるが、人材を日本に送る側の社会でどのように受けとめられていたかといったことはあまり語られない。開拓使にアメリカ人お雇い外国人が雇われる際のアメリカ側の反応として、経済活性化という関心があったという点は非常に興味深い。

実際に、お雇い外国人が北海道に来た後、アメリカからいろいろなものを購入しているからである。蒸気機関車(義経号、弁慶号、しづか号など)、農具、牛などまでいろいろなものを購入している。その意味では、多少はアメリカの産業に貢献した面はあったのではないか。派遣した人数の割には日本にそれなりに多くのものを売ることができたとは言えそうである。



 正義感の強いライマンにとってとくに我慢できなかったのは、一部の個人を優遇する開拓使の政策だった。開拓使は、北海道に商人を誘致するために低利の融資を提供していた。……(中略)……。
 漁場の賃貸制度も自由競争とは相いれなかった。実質的な独占権を手にする少数の網元はまるで「大名」のようだった。たしかに彼らは、自分をたよりとする漁師やその家族のめんどうをよくみてはいるが、特権をもつ者と依存する者との関係にはかならず「抑圧」の要素がふくまれるし、個人の自発性も育たないと、ライマンは指摘した。また、網元たちが低利の融資をえていることも問題だった。(p.89-90)


ライマンは本書によるとかなりリベラルな思想を持っていたようであるという点が興味深いが、開拓使が一部の個人を優遇する政策をとっていたという点はよく理解する必要がある。



 ダンはウィリアム・スミス・クラークが教頭である札幌農学校にも批判的だった。クラークが「有能な優れた指導者であり組織者」であることも、「知的にも道徳的にもすぐれた」学生たちを集めたこともダンは認めたが、マサチューセッツ農科大学をモデルとする学校が北海道の開拓に役立つとは思えなかったのである。ダンは、農閑期の冬のあいだだけ机にむかう小規模な農業専門学校で十分だと思った。しかし日本人は高等教育機関には敬意をはらうが、実践的な地味な学校には関心をもたないだろうとダンは思った。案の定、予算不足をなげくダンの目の前で、巨額な資金に支えられた札幌農学校が誕生し、クラークは「日本全体、そしてとくに北海道の恩人としてたたえられた」のであった。(p.128)


エドウィン・ダンのこの見解は現在から見ると、評価がなかなか難しいところがある。当時の短期的な農業事情を考えると、確かにダンの言うような専門学校で足りたかも知れない。ただ、札幌農学校がアメリカのカレッジを模倣して高度な教育を行ったことは、中期的に見ると、その後の北海道におけるリーダー育成や道外からのリーダーとなりうる優れた人材を集めるという点では効果があったと思われる。廣井勇による北海道の港湾の設計や新渡戸稲造による遠友夜学校やスミス女学校をはじめとする教育への貢献などがすぐに想起される。もう少し長期に見ると、札幌農学校がある程度高度なレベルの学校として基礎が与えられていたが故に北海道帝国大学が発足できる可能性を高めることができたとも言える。

ただ、札幌農学校が開拓使の時代にかなり優遇された立場にあったということも事実のようであり、それはお雇い外国人の過ごしやすさにも影響を及ぼしており、農学校教師のブルックスが開拓使が雇った外国人の中でも最長の滞在年数だったことにもそれが表れている。



 たしかにクラークは、開拓使に雇われた他の外国人とくらべると、大幅な自由をあたえられたが、それでも完全に自由だったわけではない。しかし妥協が必要なとき、クラークはそれに応じる柔軟性を示した。(p.155)


柔軟性があったという点はクラークが現在にまで語り継がれるほど「成功」した要因の一つだと思われる。本書で取り上げられているかなりの数のお雇い外国人は、ある意味、現在の常識的な基準から見ると傲慢過ぎたり自己中心的過ぎて問題(開拓使や他のお雇い外国人たちとの軋轢)を起こしていたという面が否定できない。クラークにはそうした軋轢が相対的に少なく、周囲との関係がこじれていなかったことは、それだけ多くの人から慕われることができたことの背景となっていたと言える。



 ペンハローとブルックスが札幌農学校の仕事に満足した理由のひとつは、アメリカで土木技師として活躍することに執着があったホイーラーとはちがって、日本に来ることが仕事をえる機会だったということである。(p.173)


母国に帰国した後の栄達のための手段として日本での経験を位置づけていたお雇い外国人は日本での経験に対する評価が否定的な傾向があったようである。これでは日本での活動が単なる手段であることになるため、そこに充実感を感じる余地は少ないのも無理はないだろう。



開拓使時代の経営費総額は二千万円をこえ、同じ時期の内務省と工部省の歳出総額二千六百万円に迫るものであったにもかかわらず、開拓使が廃止されたとき、北海道の大半が依然として未開のままだった。(p.193)


開拓使の予算規模がいかに大きかったかが分かり興味深い。開拓使以後の時代の北海道は、公的支出を抑えて民間主導を方針として運営されていく。



しかも、この「札幌新道」は、経由地点の室蘭がまだ港として整備されていなかったことや、良質の石が手に入らないために補修が困難だったことからあまり使われず、鉄道が開通するまでは、小樽から石狩川を通って札幌にいたるルートが主に使われた。(p.197)


せっかくかなりの予算を使って道路ができたのに使われなかったとは。しかし、中長期のスパンで考えると札幌新道は結果的に無駄ではなかったとは言えるだろう。この道路と作ることに対する評価は難しい。

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