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アヴェスターにはこう書いている?
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草原克豪 『近代日本の世界体験 新渡戸稲造の志と拓殖の精神』

 なお、台湾協会学校と並んでこれまたユニークな学校としては、1901(明治34)年に上海に設立された東亜同文書院がある。こちらは主として中国語・中国文化を学ぶための学校で、1939(昭和14)年には大学に昇格したが、日本の敗戦とともに廃止され、愛知大学に受け継がれることになった。かつての施設は現在は上海交通大学として使われている。(p.45-46)


帝国主義や植民地主義を実施しようとする社会においては、自国の影響下に置きたい地域についての関心が高まることが反映していると思われる。戦前のかなりの長期間にわたり仮想的国であったロシアなどについてももっと学んでよかったのではないかと思われる。



 この頃には、日韓併合が実施されたこともあって、卒業生の就職先では朝鮮が一番多くなった。朝鮮においては貧しい農村の窮状を救うための金融組織として1907(明治40)年に朝鮮金融組合が設立されたが、その第一期理事30名の全員が東洋協会専門学校の出身者であった。
 ……(中略)……。
 こうしてみると、卒業生の三分の二近くが外地で活躍しており、そのほとんどが朝鮮、台湾、満蒙、中国を舞台に活躍していたことになる。
 ……(中略)……。
 このように外地で活躍する人材を育てることが拓殖大学の建学当初からの目的であり、その目的を達成するための組織的な教育が行われていたところに、拓殖大学の伝統と特色を見ることができる。(p.68-70)


東洋協会専門学校は拓殖大学の前身となった学校である。もともと台湾協会学校として台湾統治のための人材育成のための学校であったが、この目的は日本の領土や海外利権の拡大によって拡張され、この学校の場合はかなり直接的に人材供給を行ってきたことが分かる。

北海道という植民地支配のための人材を育成することを目的として設立された札幌農学校(北海道帝国大学)の卒業生を見ても、外地で活躍した者がそれなりの数いたことがしばしば指摘されるが、こちらの場合は主に技術者や技官としての活躍(理系的)が多いように見受けられるのに対し、拓殖大学の前身の場合はここで例示されているものも金融であり、どちらかというと文系的な職で活躍した人が多かったのだろうか?



 学長に就任した当時の後藤は、日露協会副会頭として日露親善の推進に力を入れていた。翌1920(大正9)年には会頭に就任し、日露の親善を実現するためにはまずロシア語の習得が必要と考えて、ハルピンに日露協会学校(のちのハルピン学院)を創設したりしている。(p.79)


後藤新平の活動は多方面にわたっており感心する。



 拓殖大学の学長に就任した後藤新平は、前年に大学令が公布されたことを踏まえて、拓殖大学を大学令に基づく大学に昇格させることを決意した。……(中略)……。
 大学に昇格するためには、教育研究内容の充実をはじめとして種々の準備が必要であった。なかでも重要かつもっとも困難な課題は、50万円という文部省への供託金をどうやって調達するかであった。図書館の建設も認可条件のひとつとなっていたが、そちらのほうは卒業生の浄財を集めてようやく完成させることができた。その建築費が約4万5千円であったことを考えると、当時の50万円がいかに巨額なものであったかが理解できよう。このほかにも本館校舎や付属設備、運動場などの建設に25万円ほどの資金が必要とされたが、こうした資金のほとんどが後藤学長の名声と並々ならぬ努力によって台湾の製糖会社からの寄付金によってまかなわれたのである。(p.80-81)


後藤新平の働きかけなどもあって台湾の製糖会社から多額の寄付が得られたという点は興味深い。当時の台湾で最も有望な業会だったことも反映している。



 アメリカの排日運動は、日露戦争以前からカリフォルニア州のサンフランシスコで起こっていた。……(中略)……。
 ……(中略)……。パリ講和会議において日本代表が人種差別撤廃を提案した背景にはこうした事情があった。(p.102-104)


日本の人々が欧米から差別を受けている時だからこそ、日本政府は人種差別撤廃を訴えている。問題は、日本側が台湾や朝鮮などを統治するにあたって彼らを差別しないという誓いから出てきているわけではないようだ、ということである。



 大学よりも簡単に設置できる専門学校では、1939(昭和14)年に官立の高等工業学校が室蘭、盛岡、多賀、大阪、宇部、新居浜、久留米に一挙に七校も発足した。同じ年、戦争による医者不足に対処するために、七帝大医学部と官立六医科大(新潟、千葉、金沢、岡山、熊本、長崎)に医学専門部が併設された。……(中略)……。
 文部省は1943(昭和18)年10月の「教育に関する戦時非常措置方策」に基づいて、私学に対しても、文科系の規模縮小、理科系への転換を指示した。(p.188-189)


工学や医学を推進し、文系学部の縮小するという当時の政府の方針が見える。なお、室蘭高等工業学校は戦後に室蘭工業大学の前身の一つとなったが、他の6校も同様に新制の国公立大学の工学部になっている。

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