アヴェスターにはこう書いている?
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蝦名賢造 『札幌農学校 クラークとその弟子達』(その2)

 またスミス女学校の第一期卒業生であった河井道子が、のちに東京世田谷・経堂に恵泉女学園を創設するにあたって、新渡戸はその学園のために積極的に協力したが、それは札幌時代からの河井と新渡戸との深い信頼と尊敬によるものだった。(p.166)


恵泉女学園はスミス女学校(現在の北星学園)の卒業生が創設したとは知らなかった。新渡戸が協力したという点はスミス女学校の設立にも関わっているので理解しやすい。



札幌農学校が明治維新以降の日本の近代化にたいして各分野にわたってはたした功績は広汎であり、また多様だった。とはいえ総じてその役割は、河上徹太郎の言葉を借りると“日本のアウトサイダー”としてであったと思われる。1867(明治9)年に創設された札幌農学校独自の精神は、まず第一に農学校教頭クラーク博士が教育の根本原理として「聖書」にもとづくキリスト教主義のもとに、その文化と教養とを植えつけようとしたことだった。そのことは、わが国においてはまったく最初の画期的な試みだった。
 つぎに、農学校教育と経営にあたる指導者たちは、近代日本の建設に必要なものは単に法律、経済、政治などの社会科学部門だけではなく、理学、自然科学などを修学して産業をおこすことが必要であると説いた。それが農学校教育の眼目となった。このような考え方は、明治初年における青少年の一般的な夢と希望が、いわゆる青雲の志をいだいて東京帝国大学に入学し、主として法制を学び官吏となり、政府部門における権力の座にあって天下国家を論じようとすることであったのにくらべて、まさに正反対の行き方であった(そのような意味においては、あるいはアウトサイダーであったのかもしれない)。(p.182)


最初の段落で述べられているキリスト教主義のもとに文化と教養を植えつけるという点は、現在の北大の理念のうち、全人教育という点に受けつがれている。

但し、キリスト教的な教育が可能だったのは当時の北海道が東京から遠く隔たっており、細部までの統制ができなかったことや黒田清隆がワンマンでかなりのことを決めることができたという開拓使の権力の配分などの様々な偶然的な要素が重なっていたために辛うじて成立することができたものであり、クラークの希望がたまたま実現できたという偶然的な要素が強かった点は押さえておきたい。

後半の理学や自然科学を重視するという点も現在の北大の「実学の重視」という理念として継続性が認められる。但し、この点は北大だけの特徴とは言えず、むしろ日本の大学の全般的な特徴とでも言えるものであって、明治維新以後に語られてきた「和魂洋才」や「富国強兵」といった標語が広く受け入れられていたような事情が反映しているものだろう。その点で本書が東大が法律を学んで官吏となる学校であり、それが主流であるかのように対比しているのは、やや行き過ぎているように思われる。ただ、札幌農学校から北海道大学に至る歴史の経過を振り返ると、少なくとも東大との比較で言えば、やはりアウトサイダーとしての貢献をしてきたという特徴づけは的を射ている面があると思う。植民地開拓のための学校としてスタートしていることが、アウトサイダー的な特性の要因となっていると思われる。



新妻タケ子は群馬県安中に生まれ、新島襄から洗礼を受けて京都の同志社女学校に学んだ才媛であった。
 しかしふたりの結婚はわずか八カ月で破れた。(p.188)


内村鑑三と同志社、新島襄との関係はやはりそれなりに深いというか太いパイプがあるように見受けられる。結婚が短期間しか続かなかったのは、内村鑑三という人物の「円満な人格」とは言えない側面(人との関係が丸く収められないところがある)が関係しているのではないかという気がする。



しかし内村らを中心に反戦論がこのように公然と戦われたことは、明治以降の歴史において最初にして最後の事件であった。(p.201)


日露戦争に対して内村が反戦論を主張したことについて。明治末期にはまだ昭和初期ほどには検閲なども厳しくなく、言論の自由度も相対的に高かったということを理解しておくことは重要。なぜならば、言論の自由を侵害するに当たり、行政や警察等における組織の運用や治安維持法のような法律の存在が果たす役割の大きさに注目することになるからである。現在国会で審議されている共謀罪(テロ等準備罪という実態とは異なるレッテルを貼られている)の議論においても、こうした歴史の教訓を踏まえて議論されなければならない。残念ながら政府はまともに議論せずに採決したいと考えているようだが。



 新渡戸はボン大学で農政学、農業経済学を専攻した。さらにベルリン大学でシュモレル教授について農業史を、マイチェン教授について統計学を学んだ。(p.216)


シュモレルはシュモラーであり歴史学派の重鎮だが、マイチェンは恐らくマイツェン(Friedrich Ernst August Meitzen)であろう。彼はウェーバーが教授資格請求論文を出した先生である。新渡戸とウェーバーが意外と近い時期に似たようなコースで勉強していたという点はやはり興味深い。



そしてこれらのうち農業経済学のセミナーを“演習”と呼ぶようになったのは、新渡戸の発案によるものであった。(p.219)


確かに、大学時代の演習というのはゼミナール形式の講義のことだったが、このネーミングが新渡戸稲造にまで遡るとは当時は思いもよらなかった。



後藤がかくも熱心に新渡戸に固執したのは、東京帝国大学教授田尻稲次郎に「台湾統治の要諦は財政の独立にある。それには産業の発展が必要である。だれかもっとも適当な指導者はいないか」と相談したところ、一言の下に新渡戸がよかろうとの返事がかえってきたからであった。新渡戸は東京帝国大学で田尻から財政学、経済学を学んでいた。(p.220)


新渡戸は確かに東京帝国大学で一時学んだが、新渡戸の人生にとってはここで学んだことはあまり有意義ではないことが多かったとされる。しかし、人間関係のつながりという点では、東京帝大で一時であれ学んだことはそれなりの意味があったと言える。興味深い。



 さらに彼は糖業のみにとどまらず農事試験場をせ設立し、農産業全般の発展をも企図している。その初代の場長は、札幌農学校の教え子である大島金太郎教授が選ばれた。それ以後札幌農学校出身者にして台湾に渡り、糖政に、あるいは農業行政に従事するものが多くなっていった。こうして当時の新領土・台湾のなかに、新渡戸一流の文化的精神が注入されたのであった。(p.222)


札幌農学校の卒業生が植民地であった台湾に多くわたっていたが、このことも新渡戸が台湾総督府で働いたことがそれなりの影響を及ぼしているということか。こうした人脈を相互の関係にまで着目して追跡すると面白いだろう。とはいえ、こうした調査は研究者でなければなかなかできそうにないので、誰か調べて本にしてほしい。



 この暗闇の時代を支配する軍国主義とファシズムの勢力に、クラークの残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス」というスローガンは、むしろ利用されはじめていた。事実、1931年以降、日本のかいらい政権として成立した満州国建設に、北大の卒業生のなかから積極的に参加するものが数多くあらわれてきたのである。(p.263)


スローガンが利用されたから卒業生が満州国に行ったわけではないだろう。この点、上記の文は誤解しやすい書き方になっているので注意が必要だろう。北海道という植民地開拓のための学校からは、台湾、朝鮮、満州と次々と植民地(的なもの)が増えると、それぞれに適任者として卒業生が送りこまれることになったと理解すべきだろう。そのような「活躍」をさせる際にスローガンが利用されたことはあり得るが、具体的にどのように利用されたのかは本書にはきちんと書いてほしかった。



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