アヴェスターにはこう書いている?
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蝦名賢造 『札幌農学校 クラークとその弟子達』(その1)

 そのような状況のもとで、黒田次官は北海道の開拓を促進する大方針をたてたが、そのなかで北海道と気候風土の酷似した国々から開拓技術者を雇い入れて計画をたてさせ、その見識と技術とによって開拓を進めようという意見をのべ、明治新政府によって採用されることになった。……(中略)……。黒田次官はそれらの考え方を再検討し採用したのであるが、彼がその後も北海道開拓長官として、長期間にわたる権力の座についていたことは、これらの諸政策の実施の上においてきわめて重要な役割をはたしたのである。(p.16)


北海道開拓の初動の段階で黒田清隆が長期間権力を維持しできたことは、その後の開拓を進めるにあたって大きな意味を持ったという点はなるほどと思わされた。



またこの八月、開拓使の予算が十カ年一千万円と定められ、開拓使は十年計画として資金計画を認められている。このことは、北海道開拓政策上画期的なことであった。それはケプロンの理想を具体化させる大きな原動力となったのである。(p.17)


黒田が長期間権力の座についたことと合わせて、開拓使の予算も長期的に大きな金額が認められたことがわかる。(もっともこの予算は確か後に削られたはずだが。)



ところが札幌農学校の場合、東京大学の場合と異なってクラーク自身そのお雇い教師たちの詮衡の責任と権限を与えられ、彼が学長をしていたマサチューセッツ農科大学の出身者のなかからすぐれた人材を選ぶことに成功したことが、その後の札幌農学校の運営にたいして決定的に重要な意味を与えることになった。
 すなわち、クラークが北海道開拓史とかわした一年間の契約によりその教頭の職を辞して札幌を去るようになったとしても、クラークのうちたてた教育の理念、教育の理想はその後継者たちに受けつがれ、マサチューセッツ農科大学で実施されていた教育課程がその後ひきつづき札幌農学校において実施されてゆくという教育体制がとられることになったのである。(p.62)


興味深い見解。ただし、クラークが去ってから大学のカレッジのような一般教養教育は次第に後退していったという歴史的事実から見ると、この見解の通りに歴史が辿ったわけではない

しかし、マサチューセッツ農科大学という明確なモデルがあったことには、クラークが去った後も急に方向性を変えられてしまうようなことを防ぐような効果はあったかもしれない。特に10年以上札幌農学校の教師を務めたブルックスがいた期間などには、そのようなことを示すような事件もあったのではないかと想像する。この点はさらに詳しく調べる必要がある。



そして1884年の第四期卒業生からは就職上の拘束が解かれたので、卒業生はそれぞれ自由に各方面に職場を求めていった。このことは農学校設立当初の目的から大きく後退したともいえるが、そのような札幌農学校の後退が、実は、逆に札幌農学校の「子」たちを道内のみならず全国的に雄飛させてゆく機会を提供することになったのであった。(p.74-75)


就職上の拘束とは卒業生は卒業後の一定期間、開拓使に奉職しなければならないという規定を指す。この拘束がなくなった方が、むしろ農学校の卒業生が幅広く活躍する機会へと繋がったという見方は面白い。



 しかしときあたかも日本の教育の近代化が文部大臣森有礼を中心に進められ、全国的に中等学校勃興の機運に際会していた。……(中略)……。そうした動きのなかで、農学校出身者は英語、英文学などのすぐれた教育を受け、また博物学、ことに植物学に長じていたので、全国の農学校はもとより新設の中学校、師範学校における教師の適任者として大いに歓迎されることになった。
 このような関係から、農学校の卒業生で北海道の拓殖関係の職場に奉職できなかった者は、積極的に内地各府県の中等教育界にとびこむようになった。さらにそこで職場がえられない場合には、遠く台湾、そしてのちには朝鮮、満州方面、さらには南米諸国にまで雄飛していった。(p.105)


中等教育勃興の機運が高まったとされているのは明治10年代後半ころのこと。開拓使への就職が義務から外れたとき、ちょうど中等教育の需要が高まっていたこともあり、札幌農学校の卒業生は中等教育の世界を進路とした。台湾などの植民地にも多くの卒業生を送りこんでいる点は、北海道開拓という植民地開拓のための学校という設立時の目的が時代の変化によりバージョンアップして実現したという面があるように思われる。

卒業生は多方面で活躍していると本書は言い、それは農学に偏らない人間形成主義の教育をしていたことの結果であると本書は述べているが、その指摘には一理あるように思われる。



しかもこのような事実以上に重要なことは――それが本書の主題の重要な側面を形成することになるのだが――昭和の初期にはじまる十五年戦争の暗い谷間と疾風怒濤の時代に、日本の平和と独立をめざして闘った戦士のなかに、実にクラークの弟子たちの感化を受けた札幌農学校の「子」が多くふくまれていたということ、しかも戦後の日本の再建にあたっても、これらクラーク精神の継承者たちがその使命を担っていったということなのである。(p.107-108)


この箇所は本書の隠れたテーマというか著者が本書を書くにあたってのモチーフとして非常に重要な箇所である。本書は1980年に出版されているが、この時代はオイルショックの時期を経て低成長の時代へと変わっていくにつれて新自由主義やネオコン的な保守主義が台頭しつつあった時代である。著者はこうした時代の雰囲気に対して、クラークとその弟子たちを描くことを通して、抵抗しようとしていたようである。



 北海道帝国大学独立の基礎はこうして着実に築かれていったが、その背後には、親友であった一代の政治家原敬などによる積極的な協力があったことも見逃すことができない。(p.111)


佐藤昌介が北大に対して貢献があったことは否定できないとしても、大きな貢献をしたという論が多くある一方で、過大評価してはならないという批判もあり、どの程度が彼の貢献なのかは今一つはっきりしないと思われる。それはさておき、原敬の「積極的な協力」の内容についてももう少し詳しく知りたいところである。



 広井は鉄路課に勤務中、北海道最初の鉄道である小樽-幌内間の工事に従事している。(p.126)


廣井勇と小樽の関係では、小樽築港工事がまず思い浮かぶが、幌内鉄道の建設の頃からかかわりがあったとは面白い。ここではどのような仕事をしたのだろう?



広井はこのようにいわれるまで刻苦して貯えた資金をもとに1883年12月10日、横浜を発って渡米した。この広井の行動が同級生の洋行の刺激となり、翌年9月には新渡戸稲造(23歳)、つづいて11月には内村鑑三(24歳)、さらに1886年には宮部金吾(27歳)の順にアメリカに渡ることになり、おたがいにそれぞれの専門分野の研究にいそしむ結果をひきおこすことになった。このことはまた、のちに日本の学界、思想界、精神界に一時代を画する前ぶれともなったのである。(p.126-127)


同級生同士での切磋琢磨ないし競争意識のようなものがあったという見方は興味深い。新渡戸や内村などを単独で扱う視点では見落とされがちな見方かも知れない。



 広井が土木工学科の主任教授となり、北海道庁土木課長を兼任したとき、彼はまだ弱冠22歳であった。貿易港として発展の途上にあった函館や、道内最盛の商港になった小樽港の築港は、彼の設計と指導によるものだった。広井はその後、日本の主要港湾となった室蘭、釧路などの築港や鉄道敷設に従事し、北海道開拓の基本施設たる鉄道、港湾建設に貢献するところ多大だった。(p.127)


廣井勇が北海道の港湾に残した功績は確かに大きなものがある。鉄道についてもいろいろと仕事をしていたというのは港湾ほどには注目されないのはどうしてだろうか?まずはどのような仕事をしていたのか知りたい。

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