アヴェスターにはこう書いている?
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横尾壮英 『中世大学都市への旅』(その2)

 フェローがチューターを兼ねるというのは、学生が教師を兼ねるということである。……(中略)……。
 こうしてイギリスの学寮は、学生の教育の場となると同時に、大学教師の養成の場ともなった。ドイツやフランスでは、やがてハビリタティオンやアグレガションといった一種の教員資格試験が大学教師の関門として重要な役割を果たすようになるのだが、そういう動きとはかなり異なって、イギリスでは、学問をする者が学寮で後輩を相手に教育実習をくり返すことによって、教師としての修練を積むという方式ができていった。それは、ベルリン大学の創設時にフンボルトなどが強調した理念とは類を異にする、研究と教育の相即だったといえるかも知れない。
 それにまた、チュートリアルは教師一対学生一の最も小規模な教授形態であるから、大陸部の講義を主とする高等教育とはおよそ対照的な高等教育が、イギリスで展開する要因となったともいえるだろう。(p.84-85)


チューターに報酬が支払われるようになるのは14世紀末頃で、それ以後イギリスの二大学で急速にチューター制が広まったという。後のドイツで発達するゼミナール形式とチューター制には共通点があるように思えるが、学生が教師を務めるという点がチューター制のポイントの一つであるように思われる。



教師は、集まった学生から聴講料をかき集める自由業的な職業から、一定の給与を保証されて、その代わりに講義をする官吏へと転じていくのである。
 ……(中略)……。
 ところで、サラリー制がもたらした最も大事なことの一つは、教師の人事権の移動だろう。もともと学生がもっていた教師の選考権が、新しく金を提供するようになった公的な機関や権力者の手に移っていったのである。……(中略)……。
 このころのサラリーというものは、今と違って格差を当然のこととしていた。……(中略)……。
 ……(中略)……。その結果、大学の教師の間にいわば少数の特権階級と、数多い薄給の教師群とが対立するような構図ができていった。サラリー制は教師の階層化をも生み出したのである。(p.133-139)


教師の収入の変化は、大学の資金を誰が出すかという問題と連動している。学生と教師の組合から都市や王侯や政府の機関へと変わる中で、学生よりもパトロンの方が権力を強めていく流れが見て取れる。



少なくとも13世紀の段階では、イタリアでもフランスでもイギリスでもスペインでも、大学の設立権は都市にあるとみなされていた。
 しかし、そういう常識を破るような男が現われたのも、かなり早いことだった。その男は神聖ローマ皇帝として有名なフリードリヒ二世だ。……(中略)……。そして、大学団と都市が結びついてできる大学、という旧来の形にとらわれずに、人為的あるいは政策的に、自分の町ナポリに大学を作ることにした。
 それは、ボローニャからパドワが分かれてできた二年後の1224年のことだった。
 このフリードリヒ二世のやり方は、それまでの大学作りに一種の地殻変動をもたらした。彼のまねをする者がすぐに現われた。ローマ教皇の手でトゥールーズの大学や、ローマの教皇庁の大学が作られたのはそれから間もないことだった。
 教皇や皇帝といったヨーロッパの支配的な権力者が大学を作るのに、だれも異議を唱えることはできなかった。その結果、都市が大学を作るという方式と、教皇や皇帝が大学を作るという方式が両立することになった。そして、しだいに都市が作る場合にも教皇か皇帝の許可がいる、そのお墨付きがないと具合が悪いというふうに考えられるようになった。大学の設立権と認可権の分化がはじまったのである。(p.229-230)


ここではフリードリヒ二世やローマ教皇といった個人が下した決定が重要なものとして描かれているが、彼らに大学を設置することに意義があると考えさせたのは、どのような社会的な背景があったからだろうか、ということが気になる。

支配の道具としての法律の必要性が高まってきたということだろうか?もしそうなら、法律の必要性が高まったのは何故だろうか?13世紀世界システムが成立したことで経済活動が活性化し、この過程の中で貨幣による取引が増大したことが関係しているのだろうか?



 その先輩格の中世大学としては、ボローニャとパリが代表的な存在で、前者はいわゆる学生大学、後者は教師大学の祖となり、それぞれが、大まかにいうとアルプスの南と北の諸大学に強い影響を及ぼした。また全欧的に、法学部にはボローニャの、神学部にはパリの息がかかった。
 ……(中略)……。
 たとえばヴィーンではハインリヒ・フォン・ランゲンシュタインが、またハイデルベルクではマリジリウス・フォン・インゲンやコンラッド・フォン・ソルタウが、パリ大学方式の運び屋であった。(p.242-243)


中世の大学について知るにあたって、基本となる枠組みを与えてくれている。ハイデルベルクなどドイツ語圏の大学はパリの影響が強いらしい。今まであまりパリ大学には注目したことがなかった。パリとボローニャの大学については、それぞれ掘り下げる価値がありそうだ。



家族の生活が借家でもくりひろげられるように、大学も最初のころはよその軒先や賃借りした建物で活動をつづけていた。だが、時がたつにつれてその傾向はうすれ、自前の施設を手に入れ拡充していった。まず学寮が生活と修学の拠点となり、15、6世紀からは大学としてのいわゆる本館もできるようになる。だから中世大学は、大ざっぱにいって学ぶ者の集団化→学ぶシステムの開発→学ぶ施設の確保という段階を追って、その歴史を展開したといえるだろう。
 しかしそこまでくる、つまりシステムと設備が整うころになると、人もシステムもすべてが安定して動きがにぶくなる。順調な営みに鈍さや硬直性が同居する。
 大学は、本来自由に生まれて自由に消えるものだった。それが教皇や皇帝という権力のお墨付なしには設立できなくなったし、廃止も簡単にはできないような機関となった。……(中略)……。
 こうして大学は、時とともに国境のなかに自己を閉じるようになっていった。(p.253)


初期の頃の大学が自前の施設すら十分に持たないものであり、自由に生まれ自由に消える、まさに自発的な結社であり組合だったという認識は本書から得た収穫だった。現代の大学のありようが、こうした過去の姿と対比することでより明確に浮かび上がると思われる。

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