アヴェスターにはこう書いている?
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O・シュタマー 編 『ウェーバーと現代社会学 上』(その2)
レイモン・アロンの講演「マックス・ウェーバーと権力政治」より。

 政治において彼が他の何よりも重んじた最高の価値、すなわち彼が忠誠を誓った神(あるいはデーモン)とは、ドイツの偉大さであるのだと、彼はきっぱりと決断しておりました。(p.172)


アロンのこの指摘に対しては、後の討論で異論も提示されていたが、概してウェーバーをリベラリズムや左派的な主張に引き付けたいという立場からは、この指摘に対して異論が提出され、(モムゼンのように)帝国主義や国家主義的なものとウェーバーとの親和性を指摘せざるを得ないと認める立場からは概ね賛同されるという図式が見て取れた。

私としては、現在ではアロンの見方の方がリベラルにひきつけようとする側よりも概ね適切に捉えていると考えている。こちらの説明の方がウェーバーの他の政治的な主張との整合性がとりやすく、無理がないと思われるからである。



 マックス・ウェーバーが、さまざまな幻想を拒んだことは、正しかったのです。つまり、闘争なき政治はなく、暴力なき闘争もなく、そして闘争の手段は、キリストの教えあるいは単純なモラルと、必ずしも調和するものではない、というのです。しかしながらこの理論は、二つの点で私の気に入らないのです。
 第一に、責任倫理と心術倫理という、二つの倫理概念のアンチノミーに対して、極端な、ある意味でラディカルな形式が付与されていることです。自己がくだした決断が生んだ諸結果を、まったく無視することができるでしょうか?決断をくだすその瞬間に、道徳的意識を完全に排除することが、一体できるものでしょうか?ウェーバー自身がそんなことのできぬことを知っていたことは、いうまでもありません。けれども、ただ極端な場合にのみ、現実的であるような二者択一をば、根本的なものと決めつけたことによって、彼は次のような二重の危険に自己を曝らすことになりました。すなわち、ひとつには、道徳家が浴びせるいっさいの非難を、軽蔑しつつ片づける、偽の現実主義者を正当化するという危険です。そしてふたつには、政治というものが自分たちの理想に一致しないという理由で、すべての政治に対して、みさかいもなく非難を加える、偽の理想主義者を正当化するという危険であります。このような理想主義者は、結局は、知ってか知らずか、盲目の革命家や独裁者に味方して、現存の秩序を破壊することに寄与することになるのです。
 マックス・ウェーバーは、目的によって手段を正当化しうるか、という永遠の問題には、理論的な解決はないのだ、ということを、われわれに銘記させてくれます。このことは、正しいのです。けれども、さまざまな諸価値の異質性を承認するだけでなく、それらの価値相互の葛藤が解けないものだということをも、肯定したものですから、彼は彼自身の価値体系を、正しく基礎づけることができないようになったのです。われわれが生きてゆくためには、最小限の人権が、どうしても必要である、と彼は書きました。にもかかわらず、彼は自由主義と議会主義という、彼が尊ぶ宝の値打ちを低くしてしまいました。それはそれらの宝をドイツ国(ライヒ)の偉大さに奉仕するための、単なる道具へとおとしめてしまったからであります。(p.192-193)


責任倫理と心情倫理の対比が、日常的に現実的な範囲のものではなく、極端な場合にだけ成り立つような図式として提示している(理念型を「鋭く」構成している)ため、それに伴って生じうる問題が指摘されているのは参考になる。責任倫理の立場に立てば、「道徳家」から非難されても、自分の行為は正しい結果をこれからもたらすのだから不当ではないと主張できることとなり、心情倫理の立場に立てば、現実の政治に対して「正しくない動機」が含まるとして政治への不信を正当化することになり、逆に独裁者の出現に寄与する可能性があることが指摘されている。

理念型が「鋭く」構成されて提示されているがゆえに、われわれはこうした極端な倫理的立場を意識できるようになるが、意識できるようになったが故に、それが現実的に可能な(あるいは日常的によくある)立場であると錯覚しやすくもなっている。こうした理念型そのものの立場は、むしろそれほど現実的な判断基準の実例ではないことが忘れ去られてしまう。こうしたことは理念型の弊害(問題点)の一つと言えそうである。

後段の自由主義と議会主義をウェーバーは結局、ドイツの偉大さという価値に従属させてしまったために、それらの価値を貶めたという批判は、リベラル側にウェーバーを引き付けたいと考えている側からの反論がなされる内容ではあるが、やはり基本的にはアロンの主張は妥当なものと考えるべきだろう。



 したがいまして、マックス・ウェーバーは社会学者としては、昔と同じように今日なお生き生きしてはいますが、政治家としましては、必ずしも時代に先んじてはいませんでした。(p.194)


レイモン・アロンは「政治家」と言っているが、ここは「政治思想家」ないし「政治批評家」といった意味で捉えた方がいいだろう。そして、この指摘はウェーバーの政治論を読む際には銘記しておくべき点であると思われる。もちろん、上記のように言ったからといって、社会学的な業績と政治的な主張とは無関係であるわけではないのだが、社会学という学問の成立と発展にとって、ウェーバーの理論がかつて果たしてきた役割があり、また、現在においても参考にしうるものが含まれているということと、そうした有益な理論構想と結びついている政治的な主張が前時代的で誤った要素を含んでいることとは両立しうる。



ヴォルフガング・J・モムゼンの発言より。

もし権力の濫用があった場合、どうしたらそれに対して、原理的に歯どめをかけられるのか、あるいは「正当性の中に宿る制限」を権力の濫用に対抗させることができるのか、という今日火急の問題を、ウェーバーは格別ていねいに扱うようなことはいたしませんでした。このような規範的な歯どめのためのひとつの体系としては、当時自然法がよくしられた形式でありましたが、ウェーバーは、自然法が現代の法体系あるいはさらに「立憲的民主主義」の理論を与える基礎になりうるということを拒みました。これはよくご存じのところであります。マックス・ウェーバーにとっては、支配に歯どめをかけるということよりも、むしろ積極的に権力行使を展開するという、正反対の問題が、もっぱら、緊急の問題でありました。(p.226)


ウェーバーの政治論が彼の時代に先んじていない理由はここにあると私は考える。もちろん、ウェーバーはファシズムやナチスの具体的な台頭を見ることなく世を去ったのだが、こうした経験を踏まえた後の政治論はモムゼンの言うようにどちらかというと権力濫用に対してどのように制限をかけるかという問題を無視することはできなくなったのに対し、ウェーバーはこの点に関しては非常に無邪気だと言わざるを得ないため、彼の主張をそのまま参考にすることはできない内容となっている。

ただ、ファシズムの台頭から70年以上を経過してその時代を生きていた世代が不在となりつつあり、経済のグローバル化(これと結びついた富裕層の経済的および政治的な権力の増大)という状況も戦前と類似してきた中、最近は各国で戦前的な主張が現実性を持って受けとられる傾向も現われている。各国でカリスマ的なポピュリストをリーダーとして求める機運もあるが、こうした動きとウェーバーの政治的主張は非常に重なる部分が大きいことに気付かされる。こうした点を考慮すると、ウェーバーに学んだ者が彼の誤りを明確に把握しておくことは重要であると思われる。

また、付け加えると、積極的な権力行使をどのようにすべきかという問題は、ある意味では、戦後しばらくの間よりも現在の方が真剣に検討すべき問題となっているのではないか。いかにして権力を暴走させずに、有効な具体的対応策を提示できるか、ということは現在を生きる者にとっての課題であると気づかされた。

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