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アヴェスターにはこう書いている?
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O・シュタマー 編 『ウェーバーと現代社会学 上』(その1)
ハンス・アルバートの発言より。

さらに進んでは、究極的な矯正しうべくもない諸々の立場の間にある越え難き対立というものは、マックス・ウェーバーがしばしばそれを強調したという印象があるので大きく受けとられていますけれども、実際には遥かにわずかな意味しかもたないものです。(p.115)


確かに、ウェーバーのいわゆる「神々の闘争」の世界観に対しては、このような世界観も対置しながら批判的に検証が必要であるように思われる。



ユルゲン・ハバーマスの発言より。

パーソンズ氏は、マックス・ウェーバーの教説はイデオロギーの終焉を到来させる上で一つの発展を示していると主張されました。ウェーバーは歴史主義、功利主義、マルクス主義というトリレンマを突破し、ヨーロッパの思想的内戦の前線を乗り越えて、自由な議論の場へと進めた人だ、というように言われています。私はマックス・ウェーバーについてこのような線の太い、そして語の最良の意味で、自由主義的な受けとり方を許す政治的伝統の中に、アメリカの同僚たちがおられることを、羨ましく思います。ここドイツの私たちはいまだに戦争責任のアリバイ探しに追われておりますので、このようなウェーバー理解にはまったく喜んで従いたいものです。ところがそうはいかないのです。ウェーバーの政治社会学は私たちのところでは今一つの歴史をもっているのです。ウェーバーは第一次世界大戦の時代に、シーザー的な指導者民主主義の像を、当時の国民国家的帝国主義を踏まえて描いてみせました。この軍国主義的な後期自由主義の帰結はワイマール時代という時期になって現われました。もっともその帰結に対しては――われわれがウェーバーを現在のドイツにおいて受けとる場合のことですが――ウェーバーに責任があるのだというべきではなくて、われわれ自身が責任を負うのでなくてはなりませんが。ということは、カール・シュミットがマックス・ウェーバーの正統的な弟子であったという事実を、われわれはおろそかにはできない、ということなのであります。以後の思想史に与えた影響という点から見るならば、ウェーバー社会学の中にある決断主義的要素は、イデオロギーの呪縛を打ち砕いたのではなく、むしろそれを強めたといえるのです。(p.128-129)


アメリカとドイツでのウェーバーに対する受けとり方、それを許す社会的文脈の相違が語られており興味深い。現在の私自身としてはアメリカよりもドイツでの受け取り方の方がより妥当だと考えている。ただ、ここでのハーバーマスの理解は、モムゼンの見方に影響を受けているように見受けられるが、責任をウェーバーではなくその後を生きているドイツの人々に負わせている点で相違があり興味深い。モムゼンよりも穏健で、より妥当な見方であるように思われる。

ただ、ウェーバーの言説がどの程度の影響を持ったのかという点については私はやや疑問視しているのだが、人民投票的指導者民主制の像を描いて当時の人々に見せたことは確かであり、このことがシュミットのように権力分立的な要素を代議制デモクラシーから排除する結果を正当化する考え方を提示し、権力側(ナチス)にそれを利用される者がいたことは少なくとも指摘されても仕方がないと考える。そして、このような結果が生じたことは、ウェーバーの影響が主たるものというわけではなく、その時代として、代議制民主主義における自由主義的要素と民主主義的要素の内、自由主義的要素を縮小ないし排除することで独裁を正当化してしまう議論が受け入れられやすい情勢があったことがより大きな要因ではないかと私は考えているが、こうした文脈が生じつつある時期にウェーバーが発言し、その発言の内容が、実際にその時代の流れ(民主主義の貫徹による独裁の正当化)を食い止めるよりは推進する方向のものであったことを軽視すべきではないという点でハーバーマスやモムゼンのような見方に賛成である。(ウェーバーは議会主義的な要素を前面に出す議論もしてはいたが、人権を保護するような観点や権力の暴走に対する抑止という発想はほとんどなかったため、結果的に、人民投票という民主主義的方法により指導者を選び、このような方法で(部分的に)支配を正当化しながら、政策の内容はその指導者に任されることを容認する主張に至ったというのが現時点での私の理解である。)



テーオドール・W・アドルノによる公式レセプションでの挨拶より。

ウェーバーは自ら次のような模範を、すなわちウェーバーからインスピレーションを受けるということは、ウェーバーが展開したことを繰り返したり、普及したりすることではないということの模範を示したわけです。……(中略)……。世間で往々にして行なわれていますように、ウェーバーをたんなる信念の英雄に仕立てるのではなくて、ものごと(ザッヘ)自体の内的論理に従ってゆく人こそ、彼に忠実な人だといえるのです。(p.160)


ウェーバーを研究すると、どうしても彼の研究内容をなぞっていくだけで、ある程度の労力が必要となってしまい、また、それをどのように解釈すべきかということに対してもテクストが比較的開かれているため、ウェーバーが展開したことを繰り返したり、普及したり、といったことになりやすい。前段はこの傾向を踏まえての発言だろう。また、後段部分については、Sachlichkeitということがウェーバーから学ぶべきことのうち最も重要なものの一つであると私も考えるが、それも端的に指摘しており適切である。

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