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アヴェスターにはこう書いている?
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I.ウォーラーステイン 『入門 世界システム分析』(その2)

こういった身分集団/アイデンティティは、誰しもがなにかしら属しているさまざまな「人間集団peoples」――民族、人種、エスニック集団、宗教共同体など――のほか、ジェンダーや性的選好のカテゴリーとしても存在する。そういった諸々のカテゴリーの大半は、しばしば、前近代からの時代錯誤的な遺物であると言われる。しかしそういった前提に立つのは、まったくの誤りである。身分集団/アイデンティティの成員であることは、おおいに近代的であることの一部である。実際、身分集団/アイデンティティは死滅しつつあるどころか、資本主義のシステムの論理が展開し、ますます強力にわれわれを呑みこんでいくにつれて、ますますその重要性を増しているのである。(p.96-97)



日本でも近年の新保守主義的な勢力が「家族」や「伝統」などということが言われる。「伝統」は「人間集団」そのものではないが、「国民・日本人」という「人間集団」を暗黙の前提とした上で成り立っており、その集団をアイデンティファイするものとして位置づけうる限り、ウォーラーステインの用語法による「身分集団」と重なる。

これらに対しては「戦前回帰」と言われる。確かに、そうした側面がある。そして、これはウォーラーステインが「近代的であることの一部」と述べていることなのである。もちろん、ウォーラーステインがここで「近代的」と言っている場合、その言葉に正の価値が付与されているわけではない。むしろ、そうしたアイデンティティの成員とされることによって、「資本主義のシステムの論理」はますます強力にわれわれを呑みこんでいくとされているのだから。

これは簡単に言えば、様々な身分集団に人々が分割されることで、独占に有利な位置からの排除と包摂が行いやすくなるということである。もちろん、新保守主義勢力が直接に念頭においていることはこうしたことではないだろう。しかし、帰結は同じである。

例えば「家族」の価値の強調も、結局は、個人の価値を直接間接に制限するためという意図に基づいて強調されていると思われるが、こうして「公の秩序」を尊重させることで「個人の権利」を制限しやすくなれば、例えば、企業にとっては労働者の使い捨てなどもしやすくなるわけであり、大部分の「国民」を貧しい状況に置くことが可能となる。

もちろん、個人の所得が低い場合に、家族や親族が、その個人を支えるべきだとされるはずである。(現に現行の生活保護受給の要件でさえ、政府からの保護を受ける前に家族や親戚から援助を受けられるかどうかがチェックされている。新保守主義者たちが主張するような「家族」の価値が強調されるようになれば、この傾向はより拡大されていくことはほとんど疑えない。)

結局、様々な迂回路を通りながら、既に有利な立場にある人間がより有利な状況が作り出されることになる。ほとんど誰も「資本主義の論理」を考えなくても、その論理にしたがって活動せざるをえない状況を大量に準備し、また、実際に作り出すのである。




世上いわれるところでは、課税されることを好むものはいない。しかし、実際には、その逆こそが(そう公言するものはほとんどないが)真実である。だれもが――企業も労働者も同様に――国家が課税を通じて得た金銭によって提供してくれるものを欲しがっているからである。(p.125)



表現上のレトリックは面白い。より正確に言い表すなら次のように言うべきだろう。

「世上いわれるところでは、自分が課税されることを好むものはいない。しかし、誰もが政府が課税を通じて得た金銭によって自分や自分の利害関係者に提供してくれるものを欲しがっているし、国内全体にとっても提供されることが必要不可欠なものがあると考えている。」

つまり、課税とそれによる再配分(社会保障などだけでなく、インフラ整備なども含めた)自体は、ほとんど誰もが必要だと思っているし、実際に、なければ社会は立ち行かない。道路の整備だけでなく、例えば、普段何気なく目にしている信号機でさえ、それを維持し、適切に制御しながら作動させるには莫大な金額がかかっているはずであり、それの必要性を否定する者はほとんどいないはずである。しかし、自分は負担したくないと多くの人や企業は思っている。

その露骨な表現は「消費税を増税し、法人税率を下げろ」という財界の要求である。また、増税せずに財政を再建しろ、という多くの有権者の要求も同じである。いずれも無責任であり、言っている本人はフリーライダーになろうとしている。ちなみに、私はいずれの方策にも反対である。




国家の権威による専制的な行動は、その国家の強力さよりは、むしろ弱体さのしるしであることのほうが多い。国家の強さというものは、法的決定を実際に実行する能力によって定義することが、もっとも有益である。(先に触れた、ルイ十四世とスウェーデンの首相の比較の例を思い出していただきたい)。単純な指標のひとつとしては、課税額のうち、実際に徴収され、徴税当局のもとに納められた税金の割合を用いることができるだろう。・・・(中略)・・・
 国家が弱体であればあるほど、経済的な生産活動を通じて蓄積しうる富は小さくなる。その結果として、国家機構は――高級官僚から下級役人にいたるまで、横領と賄賂を通じて――それ自体が資本蓄積の中心的な場のひとつに(場合によっては唯一の中心的な場に)なってしまう。(p.133-134)



近年、日本政府や国会は次々と専制的な決定を下しているが、それはウォーラーステインが言う「国家の弱体さ」を示すものであろう。つまり、日本政府はどんどん弱体化しているために、専制的な決定が次々と行われているのである。

例えば、共謀罪のような法律を通そうという動きが執拗に国会で続けられることや、死刑確定者数が急速に増えていること、報道されずになされる軍備拡張やさらなる軍拡を可能にする憲法改定が目論まれていること、行政レベルでも「官邸主導」という名の下でも中央集権化など数え上げれば切りがない。また、先日の教育基本法の改定も方向は同じである。




しかし、この国家による暴力の独占[の原則]は、実際上は減殺されており、それは国家が弱体であればあるほどそうである。結果として、[そのような国における]政治的指導者にとって、その国の実質的な支配を維持することはきわめて困難になり、体制が国内の治安を保証しえない状況ではつねに、軍が直接に執政権を握ろうとする誘惑が増すのである。ここで注意すべき決定的に重要なことは、こういった現象が、なんらかの失政の帰結ではなく、生産過程の大半が周辺的で、したがって資本蓄積の源泉が弱体であるような地域の国家に固有の病理としてつきまとう弱体さの帰結だと言うことである。(p.134)



初歩的で基本的な認識であると言える。しかし、このことをよく認識していない人が多く見受けられる。例えば、アメリカのブッシュ政権が「世界を民主化する」と言っていることも、こうした初歩的な点を押さえてない誤った考え方である。

独裁的でない、専制的でない、民主的な政府を作るためには、その国の領域内の生産過程を中核化する、つまり、産業を高度化させ、収益を上げやすいようにして、経済的に豊かにしていくことが必要条件となる。

このことは中国に対しても当てはまる。中国嫌いの人々の多くは、この点を理解していないように見受けられる。もちろん、経済状態を良くすることは十分条件ではないが、必要条件の一つであることは間違いない。

中核地域の経済はスケールフリーネットワーク的であり、周辺地域の経済はランダムネットワーク的だとすると、これらのネットワークが共存・競合している状況においては、ランダムネットワークの側はクラスターを形成して、自らのネットワークの崩壊を防ぐ必要が出てくると思われる。そのクラスターを形成するノードとなるのは、多くの場合、企業ではなく、現代においては政府であることが多い。なぜなら、そのようなことができる企業やNGOが存在しているならば、その地域は周辺ではないだろうからである。

また、ウォーラーステインが述べているのは世界システムの周辺を念頭においてはいるが、中核地域であっても「没落しつつある中核地域」の場合には、上記と似たような現象が起こる。80年代のイギリスや90年代以降、特に21世紀になってからの日本がその好例である。




これに対して、世界=帝国は、実際のところ資本主義を窒息させてしまう。そこには、無限の資本蓄積を優先する行動に対して、それを抑えつけることのできる政治組織が存在するからである。実際、言うまでもないことだが、それは近代世界システム以前に存在したすべての世界=帝国において、繰り返し起こってきたことである。(p.145)



ウォーラーステインはこのように言うが、私にはそうしたことが常に起こってきたとは思われない。まず、その事例がよくわからない。ウォーラーステインはどのような事例ないし歴史的事実をもとにこのような主張をしているのだろうか?また、世界=帝国はひとつの分業の単位にひとつの政治の単位が対応する(ただし、文化的には多元的な)世界システムであるわけだが、そうした事例が持続的に存在したかどうかも疑問である。さらにはウォーラーステインが言う意味での資本主義すなわち「無限の蓄積」という特徴をもつ経済活動は、彼が言う「近代」以前にも「ヨーロッパ」以外の地域にも存在したと言うべきだと私は考えている。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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