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アヴェスターにはこう書いている?
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W.J.モムゼン 『官僚制の時代』(その1)

のみならず「理念型」概念は、問われている問題のさまざまな側面に留意しながら、ヴェーバー自身の言葉を借りると「理念型」の適用される現実の部分の「文化的意義」にとって特に重要な諸側面を際立たせるように構築されなければならない。たとえば官僚制に関するヴェーバーの「理念型」概念には、自由な個々人によって構成される社会にとって特に危険なものと考えられる諸要素、即ち厳格な規律、官僚制的諸機能の純粋な形式合理性などが格別強調されているごとくである。(p.27)


自由な個人(により構成される社会)にとって危険な要素がウェーバーの官僚制の理念型では強調されているという指摘は興味深い。モムゼンの見るところによると、ウェーバーは自由な個人を守るべき価値としており、近代における官僚制化の進展は、これを脅かすものと見ていたことになるのだが、官僚制の理念型構成においても既にこうした見方が反映しているというわけだ。

ウェーバーの官僚制の理念型については機能的に優れている点が強調されるという、モムゼンとは逆方向からに見える批判もあるが、モムゼン的な見方に従えば、技術的な卓越性を認めていればいるほど、自由な個人にとっての脅威の度合いも高まることになると理解すれば、これらの見方はそれほど隔たっているわけではないとも言えそうである。



 しかしながら、1913年頃に、ヴェーバーの方法論的アプローチに一つの重大な変化がうかがわれる。「理念型」は、突如として、社会学的研究の唯一の方法論的用具たることをやめて、「理念型」それ自体が研究目標となった。ヴェーバーは、経験的現実に適用されるべき文脈とは無関係に、ますます理念型そのものの精緻な体系確立に関心を示すようになって行った。その出発点が、1912年に『理解社会学のカテゴリーについて』(Über einige Kategorien der 'verstehenden' Soziologie)であった。この論文――その続編はついに書かずじまいだったが――は、「理念型」の構成を意図し、社会的行為の意味の理論を発展させることを主要目的として考えられており、社会史的分析は背後に退いて、むしろ単なる注釈になっている。ヴェーバーは、ここでは「ゲマインシャフト行為」(Gemeinschaftshandeln)と「ゲゼルシャフト行為」(Gesellschaftshandeln)の基本的二分法を指摘する。(p.32-33)


モムゼンのこうした見方に対しては折原浩の指摘に基づいて批判されるべきである。まず素人であっても明らかなのは『理解社会学のカテゴリー』ではゲマインシャフト行為とゲゼルシャフト行為は二分法的な概念ではなく、前者が後者を包摂する上位概念となっており、モムゼンの叙述は明らかに不正確である。そして、この続編は書かれなかったとモムゼンは述べているが、折原によれば、それこそが『経済と社会』とされる遺稿の「旧稿」部分であった。(後年の『社会学の基礎概念』ではこれらの概念は当時の通念に近い対概念になっている。)

モムゼンの見方によれば、1913年頃にウェーバーの方法的アプローチに重大な変化が起こり、理念型構成を目的とする形でより「社会学的」なものになったと見ているのだろう。しかし、ここで「突如として」転換した割にカテゴリー論文の続編が書かれなかったのでは「転換」とは言えず、その場での変異があっただけということになってしまう。(『世界宗教の経済倫理』などとして敷衍されているという言い方はできなくはないが。)これに対し、折原の見方を採用した方が、ここ「突如として」変化が起こったと考える必要はなく、カテゴリー論文を先行して公開できるところまで構想が出来上がったまでのことであり、これに基づいて「旧稿」や『世界宗教の経済倫理』が書かれていったと考えればウェーバーの著作をスムーズに理解できるように思われる。



 ほかのすべての考慮と特権は、国民国家の維持、高揚の最高利益に従属すべきであるというこの立論は、1895年のフライブルク大学での有名な「就任講演」の中心テーマとしてヴェーバーの選んだものであった。彼はこの講演において、国民国家の利益が、他の一切の考慮に絶対的に優越すべきであること、そうして現実政治の場のみならず、立法と政治政策の決定過程に積極的な役割を演ずる学問的領域においても同様であることを明確にしようと全力を傾けた。国民経済政策学Volkswirtschaftspolitikを自称する学科は、国民国家の利益を、社会経済政策や、社会福祉立法に関する諸問題の唯一正当な基準として容認すべきは当然の理であると彼は考えた。科学は、日常生活だけでなく研究の方向づけにも有効と思われる発見物から、究極的な諸価値を抽き出せるものではあるまい――そんなことは全く不可能である――とするヴェーバーの有名な議論が力強く断定される。しかし、この文脈には、一切の学問上の仕事――一般民衆にも政治家にも、専門的助言を与えることの期待されるすべての学科において――のために、「国家理性」の原理を究極的な指針として、自由に適用できる道をつけておこうという意図があったことは明らかである。(p.49-50)


モムゼンの最後の指摘は興味深い。このような文脈でウェーバーの価値自由に関する主張(その萌芽期のもの?)を考えたことはなかった。確かに、学問自体には究極の価値を決めることはできないとされるが、主体である個人によって究極の価値が設定されるのであれば、そこに「国家理性」を置くことも可能であり、ウェーバーはこうした余地を残しておこうとしていた、ということか。こうした文脈で捉えることができるかどうか、次にウェーバーの方法論に関する論文を読む際には注意してみたい。

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