アヴェスターにはこう書いている?
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テンブルック 『マックス・ヴェーバー方法論の生成』

客観性論文に続く諸論考がこの論文の仕上げないし応用であることをみとめるのは難しくない。私は、カール・クニースに関する研究(1905年、1906年)がロッシャー論文の後続部分だという事実を指しているのではなく、どこにおいてもヴェーバーは客観性論文で区切られた問題領域をとび出していないという事実を指しているのである。確かにクニースに関する考察には、客観性論文の中に遠い照応さえ全く存在しない多くの説明が提出されている。しかし、それらは全て、客観性論文が提出している問題のトポロジーの中で初めて体系中の一点を有するのである。同じことは、さらに他の著作、すなわち「文化科学の論理学の領域における批判的研究」(1906年)、「シュタムラーの唯物史観の“克服”」(1907年)、「限界効用理論と“心理物理学的”根本法則」(1908年)、「エネルギー論的“文化理論”」(1909年)にもあてはまる。だからヴェーバーは、1903年から1909年までは毎年一本ずつ、1906年には二本の、方法論的研究論文を生み出したにもかかわらず、方法論についての実質的論考は、ほぼ1904年だけに限られているのである。1905年と1906年の研究はさらに、客観性論文で達成されたものの拡大・補完として、いや事実またその検証として位置づけられるのである。これに対して、1907年から1909年にかけての諸研究は、まさに時代診断的分析(シュタムラーについて、1907年、ブレンターノについて、1908年、オストヴァルトについて、1909年)と評価されうる。これらは、ヴェーバーがまさに自から獲得したばかりの独自の立場から誤りと判断することができた、同時代の重要な諸学者の論文に対する、遅ればせながらそのときどきの機会に行なった批判という刻印を疑いようもなく持っている。したがって、客観性論文以後の一連の方法論的著作は、質の低下、関心の縮小、内容の狭小という方向によって特徴づけられるのである。(p.23-24)


客観性論文を方法論のピークとして捉え、以後は下り坂を下るような見方については、作品の完成度や内容の適用範囲の広さなどからも、テンブルックの指摘の通りの印象を私も持っている。ただ、この見方だけでは客観性論文以外の論文を不当に低く評価することになってしまうのではないかという気もする。例えば、私個人としてはマイヤー論文やシュタムラー論文には大いに参考となった内容が含まれており(例えば、認識根拠と実在根拠、客観的可能性、概念の一義的使用などについて学んだ)、客観性論文ほどではないとしても、相応の意味や価値を持った論文であると言うことができる。



我々はむしろ、ヴェーバーが方法論に取り組むには〔何か外部から〕強制するおのが必要であった、という印象さえ受けるのである。(p.29)


ヴェーバーが「方法論者」であるという認識に対して、本書は批判しているが、この指摘にはなるほどと思わされた。とは言え、折原浩がヴェーバーにおいては経験的モノグラフと方法論とは相互補完的な関係にあることなどを指摘しているが、こうした観点から見ると、専ら外部的な要因だけから説明するのも適切とは言えない、というところになるだろう。ヴェーバーの思想にとって内在的な理由もあったからこそ、それなりの内容の方法論を書き得たという面も同時に認識しておく必要があるだろう。



以上要するに、短かい方法論の時期と、そこからの、明白に〔彼の業績全体の〕中核をなす即事象的な研究への即座の復帰、という像である。したがって、方法論者という像からではなく、〔本来の〕道をはずして一時的に方法論の領域へと入り込んだ専門学者という像から、〔この問題局面は〕解釈がなされねばならないのである。(p.32)


ヴェーバーを方法論の専門家と見なす解釈よりは実像に近いと言える。ただ、「カテゴリー論文」や「社会学の根本概念」などは方法論ではなく、理論的論稿であるとテンブルックは言うが(p.26)、これらの論文には「理解社会学」の方法についての知見が含まれており、まったく方法論と関係がないとは言えない。そして、これらの基礎カテゴリーを理論的に提示する論稿が『経済と社会』の実質的な社会現象を扱う部分と相互補完的な関係にあるとすれば、ヴェーバーにおいては方法論は「道をはずした」ものとまでは言えないことになる。もちろん、どちらが主たるものであるかということで言えば、経験的モノグラフの側であり、その意味で「専門学者」であるという指摘は正しい。しかし、方法論を活用することにかけては「一時的」なものではなく、継続的なものがあり、その意味で「一時的に方法論の領域に入り込んだ」というより、「経験的モノグラフを書くために方法論的な整理を必要とし、それを実践していた専門学者」という理解の方が妥当であるように思われる。



理念型は確かに一個のユートピアにすぎない。しかし、我々はそれを用いることで初めて現実のもつ特徴を理解するのである。理論経済学を非現実的であるとして斥けるのではなく、その非現実性を放棄しないことが、客観性論文のもつ新しさであり、歴史学派の態度に比べて新しいことであり、かつ、ロッシャー論文に比べても新しい点なのである。(p.41)


なるほど。理念型の非現実性が持つ積極的な機能については、客観性論文から私も学んだことではあるが、その点がこの論文の独自性であるということまでは考えていなかった。なお、本書によれば、この新しさこそ、ヴェーバーによる理論経済学と歴史学派経済学との論争を解決するものであるという(p.44参照)。



訳者による「あとがき」より。

興味深いのは、丁度この時期にテンブルック論文とともに通説破壊的効果を及ぼした著述が相ついで現われたことである。一つはW・モムゼンの『マックス・ヴェーバーと1890-1920年のドイツ政治』であり、他の一つはR・ベンディックスの『マックス・ヴェーバー』(1960)である。前者はこれまで自明的とされていた自由主義の闘士ヴェーバーの像(ビルト)を破壊してしまい、後者は方法論者ヴェーバー像の大幅な修正を要求するものであった。その意味ではこの時期から戦後ヴェーバー研究の特徴的な諸潮流が形成されはじまるのである。それは戦前に比してヴェーバーの宗教社会学、支配社会学等々の実質的な研究にまで視野を大きく広げた点で画期的であった。それについてはツィンゲルレの『マックス・ヴェーバーの歴史社会学』(1981)が極めて適切な概観を与えている。(p.158)


本書(原論文)は1959年に出たが、1960年前後にヴェーバー研究に一つの画期があったという指摘は興味深い。

冷戦体制の形成がその背景にある可能性はある。

例えば、マルクスに対する(補完する)ヴェーバーという認識が少なくとも戦後日本ではあったが、ヴェーバーの西洋近代のみが近代的な「合理化」を成し遂げたという考え方は、東西冷戦においては西側が「合理化」の発祥であるという考え方に繋がる。ヴェーバーの思想を大きく捉えれば、この(普遍史的な合理化という)問題を扱うにあたって最も重要と彼が見做していたであろう宗教社会学や支配社会学に焦点が当たるのは自然な流れということになる。

しかし、モムゼンによるヴェーバー批判は、ここで私が指摘した見方を取ろうとしても、政治思想に焦点を当てた場合、ヴェーバーの国家主義や権力国家への志向、そして人権への配慮の不足などが戦後の「常識」の水準から見ると嫌でも目につくことになるため、東西冷戦における西側を代表する思想家としてヴェーバーを位置づけることには困難があることを早くも(同じ時期に)明るみに出したものと言えるかもしれない。

最後に触れられているツィンゲルレの本は読んでみたい。

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