アヴェスターにはこう書いている?
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島善高 『早稲田大学小史』(その2)

 この当時、各道府県には一校以上の公立中学校を置くことが義務付けられていたため、中学校の数は次第に増加して、明治33年には全国に217校が存在し、卒業生の数は7,747名を数えた。
 これに対して官立の高等諸校は、全国五つの高等学校を始めとして、高等師範、高等商業、医学専門、外国語学校、美術学校、士官学校、海軍兵学校などがあったけれども、すべて併せて五千余名しか受け入れ能力がなかった。従って、官立学校に合格できない、いわゆる浪人が多数出現することとなって、受験生のみならず、文部省としても私立学校に期待せざるを得なくなった。(p.59)


明治期から続く「私立頼み」の高等教育政策が、現在の公的な教育支出が少なく、それに反比例して家計による教育支出を要求する社会へと繋がっている。



 早稲田大学は明治35(1902)年以来「大学」と称するようになり、商科や理工科を設置して綜合大学の実を備えるようになったけれども、法令上は飽くまでも専門学校に過ぎず、正式の大学は帝国大学のみであった。明治政府がモデルとしたドイツには私立大学が一つも存在せず、国家の重責に任じる者は官立大学でこれを養成しなければならないという考えが一般的であったからである。
 しかし第一次世界大戦でドイツ・オーストリアが敗退し、勝利を占めた連合国のイギリスには官立大学が一つもなく、またアメリカでも第一流の大学はむしろ私立大学であるという現実を知るに及んで、官立大学偏重の考えが次第に修正されるようになってきた。
 そこで帝国大学以外の私立大学はさまざまな働きかけをし、また政府内部でも大学制度改革の機運が高まって、大正7(1918)年12月になってようやく、帝国大学、公立大学、私立大学を一律に規律する「大学令」(全21ヶ条)が公布されるに至った。(p.94-95)


戦争でドイツが負けたことと大学に関する考え方が戦勝国である英米にシフトしたとする説明は興味深い。ただ、高等教育の必要性が高まっていたことも重要な要因ではないかと推測されるなど、上記以外の要因がいろいろとあると思われるので、そうしたところをよりトータルに知りたいと思う。



 配属将校の指導下に行なう軍事教練が学苑で始まったのは、大正14(1925)年からであった。軍事教練導入に際して、学生たちは全早稲田軍事教練反対同盟を組織して反対運動を行なったが、学生の検挙や家宅捜索などの弾圧があり、また軍事教練を受けた学生に対する在営期間短縮の好餌もあって、次第に反対する学生も少なくなり、軍事教練は定着していった。
 当初、配属将校は学苑の教育に介入することはなかったけれども、昭和9年、平野助九郎大佐が御真影の奉載及び四方拝(1月1日)・紀元節(2月11日)・天長節(4月29日)・明治節(11月3日)の四大節拝賀式の挙行を迫り、学苑はこれを受け入れた。また昭和14年からは、従来、希望者のみに実施されていた大学部軍事教練が学生全員の必修科目になった
 「昭和16年度学部・学年別教練出席者比率」によれば、各学部の学生は、在営期間が短縮され、また幹部候補生試験に有利であるというので、七割から九割がこれに参加しているのに対して、文学部学生の出席率は悪く、出席率は六割から七割ほどであった。文学部には自由奔放で勇気のある学生が多かった証拠であろうか。(p.126)



軍事教練に関しては、『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』という本を通して私は知ったのだが、この本でも早稲田での反対運動についての言及があるなど、早稲田での反対運動は大きな意味を持つものであったようだ。

この軍事教練は、第一次大戦後の軍備の縮小により余った将校を学校に天下りさせるためのものであったようだが、満州事変以後には配属将校の教育への介入や軍事教練の必修化など、軍国主義化の流れに沿った動きをしていったことがわかる。

文学部の軍事教練への出席率が低いという指摘は興味深い。これについては、人文・社会科学を学ぶことが批判的思考の育成に繋がっていたのではないかと推察する。



 かくて学苑の学生・生徒はそのほとんどが勤労動員に駆り出されるようになった。さらに同年10月2日には「在学徴集延期臨時特例」が公布され、在学中の徴集延期特典も停止された。ただし工・理・医の各学部、高等学校・大学予科の理科、各医科大学、各工業大学の予科、医学・薬学・農学などの専門学校の学生・生徒は、召集を延期され大学に留まることが出来た。
 また選定された大学院特別研究生に対しても、徴集その他の動員を免除し、月額90円以上の学費を支給して、国策遂行に直接結びつく研究に従事させることになった。その対象となる大学は、七帝国大学、東京商科・東京工業・東京文理科の三官立大学、それに早稲田・慶應の私立大学の合計12大学に限定されていた。(p.134)


昭和17年に戦況が悪化し始めた後の、昭和18年の状況。

理系の専門的な知識や技術を習得する学生には、研究を通して国策(戦争)に加担させ、そうでない者には勤労動員という形で国策(戦争)に加担させていたことがよく分かる。

大学院特別研究生に国策遂行に直接結びつく研究に従事させる対象となった12大学について、政府による各大学の研究水準に対する評価が反映されているとすれば興味深い。ただ、七帝国大学とあるが、昭和18年当時には帝国大学は9校あったことが気になる。9大学に適用されていたが当時の外地にあった2校(京城、台北)は現在は日本国内にないということで本書が(または依拠した資料が)除外しているのか、それとも昭和18年当時の段階で外地の2大学には別のルールを課していたのかが気になる。



 昭和18年10月に閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」及びそれに基づく措置は、私立大学にとって死活問題であった。すなわち高等教育を徹底して理工系中心に再編成し、商科大学は産業経営を主眼とする大学として刷新し、文科系大学は入学定員を三分の一程度に、文科系専門部は入学定員を二分の一程度に縮小し、文系大学・専門部で理科系専門学校へ転換可能のものはその実現を図るというものであったからである。
 これを受けて昭和19年9月、東京商科大学が東京産業大学に、神戸商業大学が神戸経済大学に大学の名称を変更した。戦時下に営利を目的とする商業を研究するのは適当でないという意見があったからである。(p.137)


少し前にも文系学部を廃止の方向へと持って行くといった発言が政府の側からあったが、現代の時代の空気は当時と通じるものがあるのではないか。



 昭和17(1942)年に学徒錬成部に吸収されていた体育会は、昭和20年4月に学徒錬成部が廃止となったため、同年11月、新たな体育会規程によって復活した。……(中略)……。
 ところが終戦直後の戸塚球場は甘藷畑と化しており、……(中略)……、いずれも直ちに使用しうる状態ではなかった。(p.158)


終戦直後の大学の敷地が畑になっていたというのは、北大も同じであった。また、札幌の大通公園も同様である。



 学苑では創立125周年に向けて、アジア太平洋地域における新たな教育研究拠点作りを進めているけれども、まさにシンガポールはこのような拠点として理想的な環境であり、今後、アジア地域研究の拠点として、また遠隔教育の拠点として展開することが期待されている。(p.214)


こうした動きを率先して行っていくあたりも私立大学らしいと思う。教育や研究を目的として掲げはするが、いかに学生を集めるかという視点からもこれらの取り組みは説明が可能である点に留意したい。



 早稲田大学は、平成9(1997)年度から同志社大学との間で学生の相互交流をスタートさせた。早稲田大学と同志社大学とは古くから教員招聘などで親しい交流が続いていたけれども、学習機会の多様化、カリキュラム改革の一環として、全学部学生を対象として相互に交流させることとしたのである。
 ……(中略)……。
 このようにして私立大学同士が互いに協定を結び、足りない部分を他の大学で補うことが出来るようになり、学生もまた学部・大学の垣根を越え、講義や教員を主体的に選ぶことができるようになって、教育のオープン化が進んできた。(p.215-217)


限られた資源しかない私立大学が相互補完し合うという関係はなかなか興味深い。これも経営面から見て合理性がある点に留意しておきたい。

また、こうした交流が早稲田の場合、同志社との間での締結を嚆矢とする点も興味深い。歴史的経緯もこうしたところに反映しているのであろう。

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