アヴェスターにはこう書いている?
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島善高 『早稲田大学小史』(その1)

下野をした大隈が立憲改進党を結成し、そうした直ちに学校を作るのであるから、政府はその学校は立憲改進党の党員養成所ではないかと警戒していた。それにもかかわらず、東京専門学校は大胆不敵にも政治を前面に出したのであった。
 第二の特徴は邦語講義を打ち出したことである。当時、学界を代表する東京大学では日本人の教授も英語で講義をし、しかもドイツ語も課していた。大隈はこのような欧米心酔を遺憾とし、学問の自主性を確立するためにも日本語による講義が必要であると考えていた。(p.30)


現在でも早稲田は文学や政治に強いというイメージがあるが、創立当初から政治を前面に出していたというのは興味深い。本書を通読しても、ここにはそれなりの連続性があるように見える。

邦語講義を打ち出したことを誇っているのが興味深かった。今までは官立大学に関する本を読むことが多かったので、明治前半には外国語での講義はやむを得ないものであると考えていたし、大学によっては英語で抗議を受けて(苦労しながらも)十分理解できるほど学生の語学水準が高かったことを誇るような叙述もあったのに対し、私学に目を転じるとそれとは別の風景が見える。

ただ、明治初期について言えば、ある程度まともな水準の学問を学ぶにはやはり外国人教師から外国語で学ぶしかなかったのではないかと考える。私学は、それよりも低い水準の学問を教えていたり、広く学生を募らなければ経営が立ち行かないという事情があった、という現実から邦語講義というものは自然と出て来るのではないか。これに対し、大隈は学問の自主性を確立するという名目を掲げているが、当時の学生の質と数を考えると邦語しか選択肢はなかったのではないかと私は疑義を持っている。(他の私学がどうだったかを見ることでこの問題はある程度の解答が得られると考えており、この点はそうしたものを読むことで判明してくると思う。)



 式典の中で山田は、東京専門学校の教育方針として掲げた日本語による講義が成果を挙げていると自負したけれども、これは決して自己満足の弁ではなかった。それというのも、明治16年に、文部卿福岡孝弟の名で、東京大学でも外国語を主とする講義方針を止め、日本語を主として講義をする方針をとったからである。
 このことを聞き知った小野梓は、明治16年5月15日の日記に「余聞く、東京大学の我が専門学校を模倣し、邦語を以て授くるの専門の科を設くるの議を決すと。案(つくえ)を拍して曰く、是れ賀すべきなり。我が校の贏(か)ちなり」(原寛文)と記して喜んだ。(p.41)


日本語による講義が成果を挙げたのはそうなのだろう。ただ、この根拠として東京大学が日本語の講義を主とする方針をとったことを持ち出してくるのはどうかと思う。東京大学がこの方針を決定した理由などを見ていないので確かなことは言えないが、基本的にこれはお雇い外国人教師に支払う莫大な報酬という重荷があり、彼らから教えを受けて学問を習得した弟子たちをさらに留学させて最先端の成果を身につけさせるところまで育成し、教師としての役目を果たせる日本人が出てきたら順次お雇い外国人を置き換えて行く必要があったという事情があるからである。つまり、こうしたことを考慮するだけでも、東京専門学校が非常に成果を挙げているから東京大学もそれに倣ったというわけではないのではないか、と言える。

このことの説明のために、日記を持ち出しているのもいただけない。日記は公開を前提していないので他者からの批判を前提していないため好き勝手なことを書ける媒体であり、その記事の内容を根拠として、東京専門学校は素晴らしい(成功していた)と言おうとすること自体、本書の叙述の客観的妥当性に疑義を抱かせるものである。早稲田はかなり早い時期から私学の雄であり続けたのだから、学校として優れていたことを示すために、こうした無理な理由づけは必要ないように思われる。



 開講時の文学科には坪内以外に、高田早苗、畠山健、饗庭篁村、森槐南、下山寛一郎、落合直文、三島中洲、森田思軒、三宅雄二郎、信夫恕軒、関根正直らの錚々たる講師陣がおり、明治24年11月からは大西祝(操山)が加わり、哲学を担当するようになった。大西は同志社英学校で学んだ秀才で、新島襄がひそかに後継者と目していたほどの人物である。大西以来、同志社からは浮田和民、安部磯雄、岸本能武太らが次々と迎えられ、わが学苑と同志社との密接な関係が形成されることとなった。(p.46)


同志社と早稲田との密接な関係がどのようなものであったのか、興味を惹かれる。この叙述からも、私学関係について個別に調べるにあたっては同志社は外せないという認識を深めた。



 ところで明治21年5月には、私立法律学校が帝国大学総長の監督を脱したのを機会に、明治法律学校、英吉利法律学校、東京専門学校、専修学校、東京法学校(後に和仏法律学校と改称)の五校が集まって「聯合討論会」を結成し、民事刑事の問題について意見を戦わせた。しかしこの五大法律学校討論会も明治24年になると中絶してしまった。それは、この頃に明治政府の法典編纂が一段落し、いかなる法理を日本に導入するかという議論は終わって、今度はいかに成文法典を解釈するかということになったから、次第に法律学は魅力がなくなり、私立法律学校の入学者も激減したからであった。(p.52)


法典編纂が一段落したことで成文法典の解釈が主要問題となり法学に魅力がなくなったというのは恐らくそうなのだろう。ただ、そのことと私立法律学校への入学者が激減したことを直接結びつけている点には問題があると思われる。



 東京専門学校では、明治19(1886)年5月、各学科の講義録を発行し、これを頒布して校外生を募集することにした。様々の理由で高等教育を受けることの出来ない人々に勉学の機会を与えることも、学苑の使命であると考えたからである。
 ……(中略)……。
 東京専門学校出版部が発行する講義録は予想外の評判を得、大学経営に資するところもまた大であった。(p.53-54)


講義録の発行は教育上の使命であるというのは確かにその通りとしても、大学経営に資することについても想定はしていたと見るのが妥当ではないか。



 此学校は決して一人のものではない。国のものである。社会のものである。所が、それならば何ぜ文部省がしないかといふに、茲に文部大臣も御出だが、文部省でさう何から何まで出来るものではない。それで時々国家も病気してどうかすると一方向に走る。それで何でも私立で権力の下に支配されずして、さうして独立して意の向ふ所に赴くが必要。元来、私立学校から大政治家、大国法家又は大宗教家も起る。そこで此私立は矢張り必要である。決して是は大隈のものではない。(p.54-55)


明治30年、創立15周年祝典での大隈重信の演説より。官立では政治や行政からの独立が危ぶまれ、政府も時に一方向に走るため私学が必要という主張にはそれなりの説得力がある。

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