アヴェスターにはこう書いている?
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マーティン・バナール 『ブラック・アテナ 古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ Ⅰ.古代ギリシアの捏造1785-1985』(その3)

 人種主義のうねりは帝国主義の確立とも結びついていたし、野蛮な非ヨーロッパ系「土着民」に対抗して植民地宗主国内部で形成されつつあった国民的連帯意識とも結びついていた。皮肉なことに、1880~90年代の20年間は、ヨーロッパとアメリカとが世界支配を完成させた時期でもあった。アメリカとオーストラリアの先住民はほとんど絶滅させられ、また、アフリカとアジアの先住民は全面的に植民地化され、屈辱的な状態に置かれた。「白人」が彼ら先住民を政治的に配慮しなければならない理由はもはやなくなったのである。こうした意味では、反ユダヤ主義は、外部に敵がまったくいなくなった段階でのみ楽しむことができる「ヨーロッパ産の贅沢品」である、とも言うことができよう。(p.444-445)


なるほど。ナチスに見られたような反ユダヤ主義の高まりには、有色人種に対する配慮が必要なくなったことにより、「白人」による人種主義の露骨な発露が容易となったことが背景にあるということか。



ベラールが大胆であり得たもう一つの重要な要因、それはベラールが「純粋な」学者ではなかったということである。彼は、学界以外にジャーナリズムや政治といった別の世界をもっており、それによって広い視野をもつことができたのである。シュリーマンやグラッドストーンにも、似たような特徴があることに注目しておかなければならない。
 この二つ目の要因は、個々の学者の発表能力という学問の第二レベルにおいて、決定的に重要である。学界の異端児が、その「不健全な」考えを発表できるのは、学問以外の広い世界において社会的地位をもっているときだけである。(p.458)


興味深い指摘。ある学問の世界で支配的な考えに対して、それとは全く異なる考えを発表するには、その世界だけに生きる「純粋な」学者よりも、別の世界にも社会的地位を持っている者の方がはるかにやりやすい。また、学問の世界に限らず、異端的な発言を公にするには、様々な分野で社会的な地位(深い関係性やそれぞれの世界でのリスペクトなど)を得ている方がやり易そうである。

この指摘には説得力があるが、歴史的な事例としてはどのような事例があるのか、もう少し掘り下げてみたい気がする。



 1920年代には、人種主義的な雰囲気がさらに過酷なものとなった。ロシア革命においてユダヤ人が、そのように見られていただけでなく実際に中心的な役割を果たしたことを受け、ヨーロッパと北アメリカ全体においては、反ユダヤ主義が強まった。経済危機や国家的緊張の原因になっていると非難するために、スケープゴートとして狙われたユダヤ人の銀行家や金融業者はどこにでもいた。ここにおいて、キリスト教の道徳と秩序とを破壊し、転覆しようとするユダヤ人の陰謀、という曖昧だった従来のイメージが、ボルシェヴィキ党という眼に見える形をとって映し出されるようになったのである。(p.465)


ロシア革命においてユダヤ人が大きな役割を果たしたことが、反ユダヤ主義を高める要因となったというのは、本書の指摘を受けるまで全く気付かなかった点であった。「ユダヤ人」とは、実際には「ユダヤ教徒」と呼ぶべき人々であり、「人種」でも「民族」でもないのだが、それが「人種」や「民族」として扱われた上で人種主義的な差別を受けるというのだから、差別される側としては全くたまったものではないだろう。



 ここでも50年前のヴィクトル・ベラールの場合と同様に、なるべく単純で大きな連合によって全体像をつかもうとする門外漢の志向と、その逆に、細分化によって分析しようとする専門家の志向とが衝突した。つねに専門性というものは、研究者による学問・知識の「私物化」に適した狭くて孤立した研究分野を必要とする。専門家たちは、ベラールとゴードンの二人に強い脅威をいだいた。なぜかといえば、旧態依然とした学界に反抗する彼らの学説の方にこそ信憑性があったからである。(p.502)


本書ではここで指摘されているような主張がしばしば出てくるが、バナール自身が中国の専門家であり古代ギリシアやエジプトの専門家ではない「門外漢」として発言しているためだろう。とはいえ、単なるポジション・トークを超えて、こうした指摘には妥当なものが含まれていると思われる。

専門化が私物化に適しているというのは、まさに指摘の通りである。日本の一時期のウェーバー研究における大塚久雄などもこの手の私物化をしていたと言うべきだろう。



 私が本書全体で論じようとした主要な点は、古代モデルが破壊されてアーリア・モデルに置き換えられた理由についてであったが、それは古代モデル自体がもつ内在的な欠陥からではなく、また、アーリア・モデルの方がすべてをうまく説明でき、よりもっともらしかったからでもなく、実際には、アーリア・モデルがつくりあげたギリシアの歴史と、アーリア・モデルがつくりあげたエジプトやレヴァントの歴史との関係が、19世紀の世界観に、わけても組織的な人種主義的世界観に合致していたからに他ならない、ということである。(p.531)


分厚い本の割にはかなり短い文章でかなりの内容まで、本書の内容がまとめられている。古代モデルは内在的欠陥から棄てられたのではなく、また、それを支持する根拠も十分にあるのだから、アーリア・モデルの背景にあった人種主義的世界観が後退すれば、再度古代モデルが復権することになる、少なくともその余地がある、というわけだ。



 G.G.M.James(1954,pp.112-30)によれば、アリストテレスはこの地位についたおかげでエジプトにおける文献調査が容易となり、まったくそのおかげで驚くべき膨大な分量と分野にわたる彼の著作が可能となった。このことは、一般論として考えてみても、ギリシア人による中東征服がその1000年後のアラブ人による征服と同様であったことをうかがわせるものである。すなわち、征服によってそれ以前の文化の多くをギリシア化あるいはアラブ化し、その残りは失われてしまったということである。(p.599)


「この地位」とはアレクサンドロス大王の家庭教師という地位である。アリストテレスがアレクサンドロス大王の家庭教師だったということはアリストテレスを紹介する際によく言及されるが、その意味について、このように明快な指摘をしているものは少ない。



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