アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マーティン・バナール 『ブラック・アテナ 古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ Ⅰ.古代ギリシアの捏造1785-1985』(その2)

ロックは個人的にも、アメリカでの奴隷使用による農場経営に直接関わっていたので、今日私たちが言うところの人種主義者そのものであった。18世紀の偉大な哲学者ヒュームの場合もまったく同じである。(p.239-240)


黒人奴隷を奴隷として使役することに何の抵抗もなかった、何らかの抵抗があったとしても実際に使役していたという行為の実態が人種主義者と同じであったとは言えそうである。思想面でも、現在の観点からこのことを指摘するのはそれほど難しくはないだろうと思われる。機会があれば、この観点にも着眼してロックやヒュームの著作を読み直してみたい。



 18世紀におけるドイツ人のアイデンティティ・クライシスに対する第二の反応は、ドイツを真のあるべき元の姿、そのルーツへの回帰願望と結合した新ヘレニズムの出現であった。……(中略)……。文化的大国でありながら、政治的には弱体で不統一であるという状況は、ドイツ人が新ローマ人にはなれないが、新ギリシア人にはなれるかもしれないという期待を抱かせたのである。
 ……(中略)……。しかし、新たに見出された古代ギリシアに対する現代ドイツの親近感は、プラトンの「アカデメイア」の復活としての新設大学を含めたドイツ文化界全体にわたり、相当深部にまで浸透しつつあったことだけは疑いない。(p.254)


18世紀において、「古代ギリシア」がドイツの人々にとって回帰すべきものとして「発見」されたこと、これが現代においても「古代ギリシア」がヨーロッパの原点とされることにまで繋がるものであると理解できそうである。その際、当時のドイツの状況がギリシアを求めるのに適合的であった、つまり、上で指摘されている政治状況としては、領邦国家が割拠している状況と古代ギリシアのポリスが割拠している状況が類比的なものとして親近感を持ちやすいものであったと理解できるが、こうした事情を押さえておくことは重要であると思われる。

近代的な大学がアカデメイアの復活という意味合いを与えられていた、あるいはそのように見られていたとすれば、それもまた興味深い。実際に当時の人々にはどのように映っていたのか、気になるところである。



ゲッティンゲン大学は近代性、専門性、職業性を備えた最初の大学であり、その後のあらゆる大学の雛形となった。この大学は、1734年にイギリスのジョージ二世とハノーバー選帝侯によって設立されたものであるが、豊富な資金力を持ち、他大学のような中世的宗教・学問の束縛のない新設大学であった。また、イギリスとの関係から、ロックやヒュームなどの哲学・政治思想とともに、スコットランド・ロマン主義が流入する経路となった。前者の人種主義的傾向は、本章239~241ページで触れたとおりである。(p.254-255)


前のエントリーでゲッティンゲン大学に触れていたが、あの部分は本書全体の要約をしている箇所からの引用であり、このエントリーの引用文のあたりが本文でのその対応箇所となっている。

ゲッティンゲン大学が創設された頃の他の大学との相違などに興味が惹かれる。



 マイネルスの方法論は、年代記編纂者から脱した歴史家にとってもはや欠かせぬものとなり、19~20世紀の歴史文献学の世界を席巻した。歴史家にとって、どの史料にどの程度の重きを置くか、その判断を避けて通れなくなったからである。もしも歴史家が、ある史料をその時代の流れから「はずれている」などと判断し、無視や拒絶をするなら、歴史家は自分の望むような歴史像を気ままに紡ぎだすことができる。歴史家にこの点での認識や自覚が抜け落ちるなら、危険が生じる。すなわち、歴史の中の時代性とか歴史家個人の関心事のみが過大に扱われる傾向が強まるだろう。18世紀末に関して言えば、「近代的」歴史学者たちが自分たちの「分別能力」を過信したことから、状況はいっそう悪化した。また、彼らには、それまでの学者とは異なり、自分たちは客観的に記述しているのだという確信もあった。さらには、マイネルスと彼の同僚たちにとって、史料の分量や合理的推論は二の次であった。重要なのは、自分たちがどれだけ史料を信頼するかであり、それが史料の質を決定すると主張した。
 本書『ブラック・アテナ』で取り扱っている分野に関して言えば、これらの歴史家たちが、信頼性のある豊富で広範な史料に含まれた情報の受け入れを拒否したことにより、古代モデルへの扉は閉ざされてしまった。(p.257-258)


ここでのマイネルスの方法論とは、「史料批判」と呼ばれるものであり、これは「歴史家が歴史史料を使用する場合、その作成者や社会的文脈を考慮した上で価値判断を行い、信頼性を確認したものに限定して解釈を加えるというやり方」(p.257)である。歴史学が「近代的」な科学の方向へと展開していくにあたって、史料に基づいて客観的な叙述を行うことができると考えられた点では、実証主義的な方向への流れと見ることが出来よう。しかし、解釈を加える際の価値判断に関連する部分について恣意的な運用を許すものであり、これによって古代モデルの証拠となるような部分が無視されていった。

20世紀の初頭にウェーバーは、歴史叙述においても価値関係に基づいて対象を選択し、理念型を構成するとしたが、価値自由の要請に基づいて、この際の自身の価値観については自他に対して明示すべきだとしていた。あくまでも特定の価値観から見た場合に論理的に成立しうる像を構築しているに過ぎないという限定を加え、それを自他に認識させるべきだと。ウェーバーの方法論は、マイネルス流の方法論に対する批判にもなっているのが興味深い。19世紀のドイツ歴史学派経済学などにもマイネルス的な発想は入りこんでいたのだろうか?

ただ、このような限定による相対化を加えたウェーバー自身にあっても、「史料批判」を用いた歴史家が持っていたのと同様の偏見は十分には拭いえなかったという点は付記されてもよいかもしれない。こうした点は、近々ウェーバー関連の研究書などを読む予定なので、その際に検討してみたい。



 以上みてきたようなエジプト近代史の一挿話を、知っている人はほとんどいないのではないか。しかしこれは驚くにはあたらない。この物語は、積極果敢なヨーロッパ人が受動的な外的世界へと押し寄せて行く、というお決まりの筋書きから多少はずれていたからである。19世紀エジプト帝国の波瀾万丈な物語は、アパラチア山地のチェロキー、ニュージーランドのマウイ、カリフォルニアの中国人などのうたかたの成功潭のようなものであった。しかし同時に、非ヨーロッパ人がヨーロッパ人を同じような手で打ち負かしたという一つの実例でもあったことも確かだ。だからこそ、人々の記憶の中にとどめておくことが許されなかったのである。「ヨーロッパ人は生まれながらに優れている」という人種的ステレオタイプの破綻が明らかになった時、それを繕うために何らかの小手先細工が必要であった。(p.293)


歴史叙述において、こうしたことはしばしばみられる。現代の中国や北朝鮮など言論の自由が制限されている場合には、為政者に都合の悪い歴史は隠蔽されたり改ざんされたりすることは容易に理解できるだろう。しかし、日本の歴史などについて語られることについてもこのような点に注意を払い、隠された物語を掘り起こしていくことは必要である。こうしたトレーニングを積むことで、現代の政治における言説などを読み解く際にも、その隠された意味などを感じ取る感覚を研ぎ澄ましていくことができる。これが歴史を含めた人文・社会科学を学ぶことの一つの効用であると私は考えている。



 当代随一の学者であったフンボルトによってベルリン大学に呼び寄せられた人物が、ヴォルフであった。ヴォルフは、すでに見てきたように、講座制を導入した人物であり、講座制はベルリンからプロイセン全土に広がり、その後のドイツ全土、さらに他の地域へと広がっていった。この制度は、学生が自らの研究をつうじて積極的に学ぶことを前提にしており、旧来の講義よりもはるかに大きな自由と、独自性を発揮する可能性とを、学生に与えることになると思われた。確かにこのやり方は、それから180年以上にわたり、偉大な学問的成果をもたらしはしたが、一方、研究テーマの選択からその進め方に至るまで、管理するためのきわめて効果的な道具として利用され得たし、実際にまたそのように利用されてきたことも確かである。(p.336)


講座制は日本にも導入され、旧帝国大学に現在も残っているが、この制度に対する批判的な側面の指摘が興味深い。研究テーマの選択にはある程度の幅が与えられるにしても、指導教官となる教授や准教授などの知識や関心の範囲と関連することになる傾向は否定できないように思われ、その意味で研究の大まかな方法は規制される傾向があるとは言えそうな気がする。講座制の歴史やその功罪についての研究などがあるのであれば、是非読んでみたい。



 ミュラーが使った二つめの巧妙なごまかしの手口は、その「証明」責任を古代モデルの申立て人に転嫁してしまうというものである。20世紀初頭の学者ポール・フカールが論じたように、証明責任は、むしろ近東による植民地化があったとする古代のコンセンサスを疑う側に課す方が、古代のコンセンサスを擁護する側に課すよりも合理的であろう。ミュラーの「はったり」が大成功をおさめたという事実が証明しているのは、ギリシア独立戦争の当時および戦後において、いかに彼の聴衆がそのような「はったり」を聞きたがっていたかということにすぎない。研究者としての「高い立場」を利用し、自分に反論する者に「証明」を要求することができたミュラーによって、古代モデルは確実に破壊されていったのである。(p.372)


研究者としての高い立場から論敵に要求を出すことができたという指摘は重要である。これは研究のみならず、政治や日々のビジネスの場にも似たようなことが成立ちうるからである。

なお、これとは別に、」本書では研究分野にも分野によって地位の高いものと低いものが設定される傾向があることを主張しているが、その主張も興味深いものである。例えば、ギリシア古典学は東洋学より高いものと考えられていたことなど。この点はバナール自身が中国の研究者であるが故に彼自身が感じていることがもとになっているのであろう。



古代モデルの崩壊の原因は、その学問の内部における新たな発展のせいなどではなく、当時の世界観に古代モデルが合致していなかったせいなのである。もっと正確に言えば、古代モデルは「人種」と「進歩」という19世紀初頭のパラダイムにそぐわなかったのである。(p.374)


それ故、19世紀パラダイムが疑われれば「修正古代モデル」が復権しうるわけである。


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