アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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安田浩一 『ネットと愛国』(その1)

「あくまでも市民運動として、僕は参加してきたつもりです。ですが、いつのまにか『市民なのだから何を主張してもかまわない』といった甘えも運動内部で生じてきたように思います。言いたいことを言う、やりたいことをやる。それでは子どもの集団ですよ。しかもネットによって運動が拡大するにつれて、政治目的というよりも不満をただぶちまけたいだけの若者までもが参加するようになりました。ただ過激さを競い合うだけのような場面も珍しくなくなったんです」(p.174-175)


ネット動画などで耳目を引いて参加を募るという方法論自体が、こうした方向へと展開する大きな要因となっている。この意味で、逮捕者を多数出すような結果となったことは、在特会の活動の方法から半ば必然的な帰結であったと見ることが出来る。そこに至ることによってヘイトスピーチに対する法制定など社会の側から受け容れられないことが明確化することで、在特会自体の存在感は小さくなっていったと理解することが出来る。

「市民なのだから何を主張してもかまわない」という発想は、在特会特有のものではないという点にも注目したい。さらに言えば、「市民なのだからどのようなやり方(態度を含む)で主張しても構わない」という考え方とセットになっている場合もあることにも留意したい。いずれも「甘え」というか、社会に生きる人間として「悪い」――共通善に反する――態度である。



「音楽を通じてたくさんの友達がいたのですが、在特会の活動に熱中しているときは、彼らが僕からどんどん離れていった。他人にどう見られているのかということが、その頃の僕にはわからなかったんですね。実を言うと、在特会のメンバーには活動以外に何の趣味も持たず、友人も少なそうな人が多かったように思います。だから在特会の活動だけに生きがいを感じるしかなかったんじゃないでしょうか」
 ……(中略)……。
 何も持ち得ぬ者にとって「愛国」は唯一の存在証明にもなる。(p.180-181)


「ネットの動画で人を募る」という方法と「友人や趣味を持たない人」とは相性が良い。何も持たない人が持てあました時間をネット動画を見て過ごす中で在特会の動画と出会い、満たされない思いを発散する方法と口実(愛国をベースとする彼らの振りかざす「正義」)を発見することで「覚醒」するといったモデルで捉えると理解しやすい。



「大事なのは若者や子どもを“落とす”ことだと思うんですよ。だから芸能人や人気漫画家を、どんどんこちらの陣営に引き込んでいきたい。(p.229)


ネトウヨでありクーデタを計画しているという「よーめん」の発言。教育やメディアというものが重要なのはまさにこの点においてである。ここで語られているような「悪」の方向にではなく共通善が何でありどのようにしてそれを実現していけるのかを討議できるような市民を形成できるような教育とメディア環境があることがきわめて重要である。



 在特会は自らのウェブサイトにおいて「そもそも外国人が外国籍のまま本名を隠し、日本人と同じ名前で生活できる制度自体が異常と思わないか」と主張している。たしかにそのとおりだが、在日が通名を使用せざるを得ない“環境”について、少しでも思いを馳せたことがあるだろうか。たとえば在特会の幹部たちはリーダーの桜井をはじめ本名を隠し、別の名前を使って活動している者が多いが、その理由の一つは、本名で活動すると「いろいろと都合の悪いこと」が生じるからだろう。(p.273-274)


在特会が掲げる「在日特権」なるものが存在するかどうかを本書では検証しているが、そのうちの通名制度に関する部分。在特会側が通称名を使っている点を持ち出して批判している点が面白い。在特会の主張が公正ではなく一方的なものに過ぎないことがよく分かる。



「考えてみたんです。僕らは市民団体を名乗っているけど、地域の人間とともに立ち上がることができるのか。家族とスクラムを組んで敵とぶつかることができるのか。そもそも出身小学校のために駆けつけることができるのか。すべてNOですよ。僕らはネットで知り合った仲間以外、そうした絆を持っていない。僕はそれに気がついた瞬間、この勝負は負けだなと確信しました」
 在特会は絶対に認めることはないだろうが、彼らが憎悪する「特権」の正体とは、意外とそんなところにあるのかもしれない。つまり、在日社会が持っている濃密な人間関係や、強烈な地域意識。それは、今日の日本社会が失いつつあるものでもある。個々に分断され、ネットを介してでしか団結をつくりあげることのできない者たちにとって、それこそが眩いばかりの「特権」にも見えるのではないだろうか。(p.291)


興味深い指摘。在特会は市民運動を名乗っているが、実際の地域に根ざした人間関係などとは縁がないものであるという点については、本書を読むまであまり考えたことがなかった側面であり、この視点は重要であるように思われた。在特会に入るような人が「何も持たない」ような人であることとも密接に関係しているからである。すなわち、パトナム的な意味でのソーシャル・キャピタルを持たない人が増えていることが、ヘイトスピーチ的なものが広がる土壌を造っているのではないか?社会の構造としてソーシャル・キャピタルを蓄積できるような方向へと進めていくことが必要なのではないか?



「桜井に限らず、在特会のメンバーに共通するのは“世間に認められたい”といった強い欲求ですよ。彼らは“メディアなど信用できない”と言いながら、たとえ批判的なトーンであったとしても自分たちの活動がメディアに取り上げられると、無邪気に喜ぶ人が多いんです。(p.337)


在特会などの言動の激しさは、鬱憤晴らしという意味があるほか、世間の注目を浴びたいといった意味もあるのかもしれない。



「(在特会の)メンバーには、ここで始めて“認められた”喜びを得る人間が多い」と打ち明けた。(p.421)


社会の中にうまく溶け込めずにいる者は当然、社会からもうまく認めてもらえない。そういった人間が在特会という場での活動によって承認される欲求を互いに満たすことができる。そのことが吸引力にもなっている。こうした図式は本書を読むまで全く気付かなかった点であった。

「認められる」ことが少ない社会であることが問題の根本であるように思われる。不寛容な社会。小泉政権下でのネオリベ的な言説と政策による社会の分断、個人のアトム化は、社会にとってこうしたネガティブな効果をももたらしたのではないか。



「たしかにニートや引きこもりだった人間がいないわけじゃない。でもそれは多数とは言えませんね。仕事とか学歴とか、そんなこととは関係なしに、どこか人間関係に難点を抱えているようなタイプが多いんです。在特会のいいところは、“来る者を拒まず”を通していることなんです。(p.422)


コミュニケーション能力は、ここ20年程度の間でかなり重要度を増しているものとして扱われていると思われ、コミュニケーション能力があることは善いこととされている。それはもっともな面はあるとしても、個々人に高いコミュニケーション能力を要求する社会というのは望ましいものではないのではないか。




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