アヴェスターにはこう書いている?
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ホッブズ 『法の原理 人間の本性と政治体』

そして小心とは、自分の力について疑念を抱いていることです。……(中略)……。祖先を自慢するのもそうであります。すべての人間は、自分が力を持っているばあいには、他人の力よりも自分自身の力を示そうとするからです。(p.99-100)


「祖先を自慢する」ことは小心であるしるしだとホッブズはここで言っている。国粋主義者たちが、自身が所属する「国家」や「日本民族」といったものを称揚する場合も、まさにこれに該当すると言うべきだろう。



 そして、コモンウェルスを構成する人びとが力を用いる権限は、かれらから主権者に譲渡されていますから、主権という権力を持つ者は(なにをなしても)罰せられないという結論が容易に導きだされましょう。(p.216)


ホッブズの議論で特徴的な考え方の一つがはっきりと表れている箇所。人々の自然権(基本的人権)は、主権者に「譲渡」されており、臣民は自然権(基本的人権)を持たない、というのがホッブズの議論の重要な構成部分となっている。もちろん、主権者は自然権を譲渡されているのだから、個々の臣民の自然権を守るように義務づけられることにはなるという一面を持ち、ホッブズもそうした指摘はしばしばしているのだが、しかし、主権者(権力者)に個々の臣民の自然権(基本的人権)を守り、それを侵害しないようにするための確実な方法や仕組みとして供えられた歯止めなどについては全く議論していないようである。この点がホッブズの思想の最も危険な部分であると私には思われる。

ホッブズの時代のイギリスの政治状況は確かに君主の権力が弱く、議会が相対的に強い力を持っていたため、一つのまとまった「近代主権国家」を形成しなければならないとした場合には、不都合な条件下にあったとは言えるかもしれず、ホッブズがこのような論理によって王権を絶対的なものにすべきだと主張する理由も理解できないことはないが、抵抗権を唱えたロックなどの方がやはり政治思想としては優れていると思われる。

そもそもホッブズの自然権を譲渡したので臣民には自然権が残っていないということ自体が問題であろう。例えば、自身が生存する権利を他人に渡すなどということができるとは私には思えない。同じくフィクションであったとしても、自身が自然権として持っている権利の一部を、社会を成立させるために必要な限りで自ら制限することによって、その空白を支配権を持つとされる人々が利用することが出来る、といったイメージでとらえた方がより現実には近いのではないか?



 雄弁とは、わたくしたちが話すことを信じさせる力にほかならず、その目的を達成するためには、聞き手の情念の助けを借りる必要があります。ところで、真理を論証したり教示するためには、じっくりと〔一般的な原理から特殊な事例を〕推論し、しっかりと注意を向けさせることが必要とされますが、このことは聞き手にとって決してわかりやすいことではありません。したがいまして、真理を求めることなく〔自分の話を〕信じさせようとする人びとはこれとはちがった方法をとります。すなわち、聞き手に信じさせたいと思うことを、すでにあるていど信じられていることがらから導きだすだけでなく、〔そのことを〕誇張してみせたり、小さく見せかけたりして、自分の必要に応じて善悪・正邪を実際以上に大きくしたり小さくしたりしなければなりません。(p.337-338)


こうしたごまかしによって人々に信じさせたいこと――それも、真実とは異なること――を信じさせるというやり方は、安倍晋三がよく使っている。それに対するマスメディアなどの抵抗が弱すぎるのは、言論の自由が制限されてきていることの表れであると捉えるべきではないかと考えている。メディアがダメだとだけ言っていても問題の解決にはならず、そもそも言論の自由が制限されていることに問題があると捉え、これを常識として共有した上で政府とマスメディアに改善への圧力をかけて行くということが必要ではないか。言論の自由が「上手に」制限されているところでは、人々の側が制限されているということに気づかない、知らされていないことがあるということに気づくことが出来ない、そういったことが問題なのだということは心しておくべきであろう。



これと同じく、雄弁に判断力の欠如が合わさりますと、ぺリアスの娘たちにみられたような判断力の欠如がメデイアのような雄弁家に乗じられて、改革という主張や希望によってコモンウェルスを切りきざむことに同意してしまうのです。事態が混乱の渦中にあるときには、改革などもとより望むべくもないことだったのであります。(p.339)


少し前には小泉改革、現在はアベノミクスと呼ばれるものなどによって、まさに日本社会というコモンウェルスが切り刻まれている最中である。確かに、昨今の日本でも、政治家たちの雄弁(真実とは異なるが信じさせたいことを人々に信じさせる方法)と人々の判断力の欠如とが結合している。

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