アヴェスターにはこう書いている?
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堀淳一 『北海道 地図の中の鉄路』

 なぜこの線がそんなに早く完成したのかというと、札幌から旭川を経由して帯広や釧路に到達するのを急いだからで、実際につくりはじめた時の名前は「十勝線」。つまり、幹線扱いだったのである。ただし、これが実際に帯広まで届いたのは、ようやく1907年になってのこと。……(中略)……。
 しかし、今の根室本線の滝川-富良野間が1913年(大正2年)に開通すると、札幌から釧路へ行く直通列車は当然、距離のはるかに短いこちらを通るようになり、旭川を通らなくなった。そのため、旭川-富良野間は幹線としての地位を失って、「富良野線」という55キロ足らずのローカル線に転落してしまった。(p.10-13)


前段の部分は二つ前のエントリーで『北海道の鉄道』を取り上げた際にも言及されていたところであるが、なぜ完成を急いだのかという社会的な背景が気になる。

後段からは路線の扱いにも栄枯盛衰があることがよく分かる。



 なぜ、ホームが曲がっているのか?
 その答えは地図(図2-2)を見れば一目瞭然だ。かつては、レールが函館港の中にナナメに突き出ている青函連絡船の鉄道桟橋につながっていたからだ。(p.26)


函館駅のホームが曲がっている理由。



 実際、昭和20年(砂原回りの函館本線をつくったのと同年――つまり戦争末期の輸送力増強に躍起になっていた年だ)にそれが実行されて、この区間が複線化されたのだった(図2-8)。(p.43-47)


函館本線に関する記述。本書によると、日本政府は戦争末期に輸送力増強に躍起になっていたという。実際にいくつもの鉄道路線がその時につくられているからそうなのだろうが、何故、戦争も末期になって敗戦が濃厚になっている時期に金をかけて輸送力増強をしようとしたのかが気になる。



 長万部からは、室蘭本線が分かれる。昔は函館本線が、札幌あるいはそれより奥地へ行く時の大幹線で、優等列車もすべて函館本線を通っていたのだが、戦後の昭和35年(1960年)頃から優等列車は次々と急勾配のない室蘭本線・千歳線を経由するようになり、今では函館本線の長万部-小樽間は完全なローカル線――普通列車しか走らず、しかも本数が少ないというさびしい線――と化している(小樽-札幌間に優等列車は走っていないが、札幌近郊の通勤・通学・行楽列車の本数は多い)。(p.51-52)


昭和35年頃は小樽が斜陽化する時期と重なっているだけでなく、本書の千歳線などの記述を読んでも分かるが、室蘭本線・千歳線の沿線の都市が急速に都市化していった時期とも重なっている。高度成長の始まる頃だが、石炭から石油へのエネルギーの転換などが小樽の斜陽化の要因の一つとして語られるが、この路線変更に例えば何らかの技術的な理由があったとすれば、この路線変更自体が小樽の斜陽化の要因の一つとして数えられるべきものである可能性がある。(社会的な背景があって路線変更が行われた場合には、その社会的背景を要因として数えることが出来るかもしれない。)

なお、千歳線沿線の都市の都市化の原因は恐らく、この路線変更に求めてよいように思われる(それぞれの都市に発展する要因があったとしても、鉄道の路線沿いの都市が軒並み同じような時期に同じような都市化をしているとすれば、個々の要因よりも全体に共通する要因の方が原因と考えられるため)。



 銭函からは比較的、直線区間が多くなる。……(中略)……。
 ただし、普通列車は相変わらずスピードが出ない。いや、かえっておそいのではないだろうか?なぜか?駅がやたらと多いからだ。札幌駅まで、何と18キロの間に9駅、約2キロごとにあるのである。
 開通当初は、手稲(はじめは軽川)、琴似の2駅しかなく、それに大正13年(1924年)、桑園駅が加わっただけの状態が長らく続いたのだが、戦後、札幌の市街地がとめどもなく拡大しだしたため、その各所からの通勤・通学・買物・遊楽客を拾おう、と、昭和60年あたりから続々と駅をつくりはじめた結果、駅数が三倍増してしまったのである。(p.84)


鉄道と都市化との関係は興味深い。



 北一已を出ると右側は低い丘陵になるが、それが遠ざかる頃、秩父別駅に着き、ここを出るとふたたび水田のただ中を走って石狩沼田駅となる。ここはかつて、札幌・桑園から札沼線が来ていた。札沼線の「沼」の字はこれに由来するのだが、今ではかなりの鉄道通でも「この沼はどこから来たのか?」と頭を悩ますようだ。
 ……(中略)……。
 次の駅は藤山。この名は、明治29年に藤山要吉が農場を開いたことに由来するという。さらに次の大和田駅も、同31年に大和田荘七がこの付近で炭鉱を創業したことによっている。そうそう忘れていたが、石狩沼田駅の沼田も開拓者沼田喜三郎の姓だった。これほど人名由来の駅名が多い線区も、ちょっと珍しい。(p.166-168)


これらの人物が名を残しているのは、富裕層に大きな富が蓄積されやすい社会だったことも関係していると思われる。



 それが千歳線となって20年足らずの昭和35年頃から、まずそれまでは函館本線の山線経由で運転されていた急行列車が、峠越えがなく平坦な室蘭本線・千歳線経由で運転されるようになり、それに伴って昭和40年から複線化、また同42年から北広島以北のルート変更化の工事がはじまって、同48年には全線が複線となった。また、昭和55年には全線が電化された。(p.194)


先ほど函館本線の章から引用したp.51-52の記述と対応する。千歳線沿線の都市(千歳、恵庭、北広島)の都市化の進展や同時期の小樽の斜陽化とも関連していると見るべきだろう。


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