アヴェスターにはこう書いている?
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札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫41 札幌とキリスト教』(その2)

 明治9年(1876)東京女子師範学校に付設されたわが国最初の幼稚園には、キリスト教と縁の深い人々が多くいた。このことは、来日したキリスト教の宣教師たちが伝道の手段として始めた日曜学校に、幼稚園の創始者フレーベルの保育法を取り入れていたことと無関係ではなかった。わが国の幼児教育は、キリスト教と共に移入され、キリスト教の伝道ことにプロテスタント系教会の日曜学校と深いかかわりをもって普及されていくのである。昭和19年までに札幌で開設された私立幼稚園は12、そのうち9つがキリスト教と関係した施設であった。今は廃止されているものがあるにしても、この事実は札幌とキリスト教のかかわりが就学前教育の分野にも深く及んでいたことを物語るのである。(p.140)


キリスト教と幼児教育との関係は興味深い。前のエントリーで「キリスト教会への国家の圧迫は、教会に先立って教育界にあらわれている」と本書で述べられている箇所を引用したが、キリスト教も外国を伝道するにあたって教育と結びついて入ってきたことも、ある意味では同じようなやり方をしていたことになる。すなわち、その社会の中で人を育てながら時間をかけて浸透していくのが最も自然に入りこめる方法の一つであるということを利用しているように思われる。

違いは、中央政府が教育を乗っ取る場合は、それに対して抵抗することがより難しいという点に求められるように思われる。合法的に抵抗することが難しいという一点をとっても、それは明白であり、このような抵抗の困難性は、政府と教育との間に距離を取ることを求めるべきである理由であると考える。



 札幌で最初の幼児教育施設は、明治20年(1887)9月スミスの私塾に付設された幼稚部である。……(中略)……。解説早々にして教室は生徒でいっぱいになり、その様子を知って北海道庁長官岩村通俊は、木造二階建校舎を新築し、無償で貸与してくれた。(p.140-141)


一私塾に対して北海道庁長官が校舎を新築して無償貸与とは現在の感覚からすると破格の扱いである。スミス女学校に関してはもう少し踏み込んで知りたいことが多くあるが、札幌農学校関係者やその卒業生もいたであろう道庁関係者などの支援が得られたということはこの学校にとって幸運だったとは言えそうである。



 北16条西2丁目に札幌藤高等女学校が開設したのは、大正14年(1925)4月である。“殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会”が経営するこの女学校は、カトリック精神を基調にし、ドイツ風の質素で堅実な婦人を育成するという教育理念がすこぶる評判が高く、その建学の精神を幼児教育にも及ぼすべきであるという要望も各方面から起こってきた。これにこたえて最初の幼稚園が小樽に設置され、次いで昭和13年4月、札幌藤幼稚園が女学校に付設して開園された。(p.146-147)


高等女学校が1925年に開設されたというのは、札幌においてもキリスト教の勢力拡大がみられた1900年頃より少し経った頃であったことが背景の一つを成していたと思われる。それにしても幼稚園を最初から女学校付設として札幌に作るのではなく小樽にできたというのが奇異な印象を受ける。なぜこのような経緯となったのか気になるところである。小樽藤幼稚園のhpによると開設は1934年(昭和9年)であり、小樽の経済はピークを迎えていた頃にあたる。小樽のカトリック信徒で財力がある者がいて、多額の寄付があったのだろうか?



当時、幼稚園に子供を通わせる家庭は限られていたから、園児の確保という面のあったことも否定できないが、やはり伝道という使命がその根本にあったのである。大正15年(1926)「幼稚園令」が公布されてからは、キリスト教教育もおのずと制約されるが、園児の家庭にキリスト教を認知させたことだけは確かである。そして、幼い子供たちにクリスマスやイースターの行事などで、生涯忘れることのない思い出をつくらせ、この世にキリスト教の存在することを覚えさせた役割は、なによりも大きなものであったのである。(p.147-148)


最後の一文などは、私自身も子どもの頃にキリスト教系の幼稚園に通っていたので、非常によく分かる。キリスト教に対する親近感は確実に高まったと言える。(例えば、幼稚園から小学校に上がった際、幼稚園では弁当を食べる前に神に祈ることになっていたが、学校では給食を食べる前に祈らないことに違和感を覚えたことがある。)



 スミスが師範学校の教師になった目的は、札幌に女学校を開設する基盤をつくることにあった。スミスはこの塾を「札幌長老教会伝道女子寄宿学校」と称したが、伝道協会は許可しなかったのである。彼女の健康と事業の困難さを予想し、むしろ反対の意向を示し、当面、師範学校からの俸給(月額60円)を自由に使用することを許しただけであった。したがって、スミス個人の私塾として始められたといえるのである。
 スミスが伝道協会の反対を承知の上で事業を継続できたのは、宣教師としての自覚もさることながら、札幌における最初の教会である札幌基督教会の会員と、北海道庁の援助があったからである。ことに岩村通俊長官は、女子教育の必要性を認識して、塾の開設を許しただけでなく、物心両面にわたる積極的な支援を惜しまなかった。(p.158)


スミス女学校(現在の北星学園)について。

札幌という地が当時にあっては辺境の地であり、中央権力の監視や権力が十分に及ばない土地であったこと、その地にクラークが札幌農学校の学生達の伝道に成功したこと、学生達は卒業後、札幌基督教会や北海道庁に所属していたこと、といった遠近様々な要因が、スミスの女学校を支援する方向へと作用していたように思われる。また、伝道協会が反対する中で成し遂げられた事業であるという点も興味深い。



 キリスト教は、正規の時間に聖書科を設定して教えていた。修身科が導入されても、その内容は聖書であった。皇国民錬成教育が至上命令となり、修身の内容が限定されるとあらためて聖書科を独立させた。高等女学校では認められない聖書の時間を厳守するため、あえて不利な各種学校の資格に甘んじていたのである。しかし、生徒にその不利益を被らせないために、施設・設備を必要以上に整え、教科目を増やし、内容を高める努力をした。その結果、大正8年高等女学校同等の指定を受けて専門学校入学資格を獲得、同15年には小学校教員無試験検定の資格を得て、それぞれへの進路を開くことができたのである。しかし、国の教育制度の画一化政策は、こうした努力を無効にする方向で進められた。高等女学校への転換は、こうした情勢の中で実施されたのであるが、その準備は女学校を財団法人にして伝道協会から独立した段階から整えられていた。そしてこの独立にしても、学校を維持するためには必要欠くべからざる条件であったのである。時勢は、西洋人即敵国人という状況にあったのである。したがって、昭和16年の財団法人設立と共に、ミッション・スクール北星女学校は消滅し、北星高等女学校設立と同時にキリスト教教育は放棄されることになった。しかし、寄宿舎の生徒たちは別であった。寄宿舎は親権者から委託された生徒たちの私生活の場であったから、徹底したクリスチャン・ホームの生活を採っていたのである。(p.160-161)


高等女学校に敢えてならずに各種学校の資格に甘んじていたこともそうだが、財団法人を設立して伝道協会から独立させ、キリスト教教育を学校の場からは放棄しつつ、寄宿舎はクリスチャン・ホームとするというあたりは、涙ぐましい努力と工夫であり、国粋主義的な「国家」に対する見事な抵抗であり、敬意を表したいところである。

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