アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫41 札幌とキリスト教』(その1)

キリスト教側の計画的な働きかけ以前に、市民のなかにキリスト教の信仰を求める動きが、教派横断的に起こりつつあったのである。しかもそれは、初期のキリスト教のように、明治維新後の士族の転進願望や、1890年以前の欧化主義時代の物珍しさに浮かされたものではなく、全く精神的な欲求であった。
 大挙伝道は、1900年に全国的に組織され、札幌は北海道第一区と定められた。札幌では同年12月、19世紀感謝演説会をそして祈祷会を催し、これを皮切りに活動が開始された。翌1901年、全国的に非常な勢いで、“リバイバル”(信仰復興)が起こり、熱烈な信仰の気運に促されて取り組まれた。(p.45)


明治30年代にキリスト教を受容する社会的な動きがあったという指摘は興味深い。大正時代頃には、北海道でもビールを飲む中間層やサラリーマン層が次第に増えてきていたはずだが、このような欧米のライフスタイルを受容するような社会層が育ってきていたことと関連があるように思われる。



 ロシア革命の影響や、社会不安の結果生じた社会主義思想とその運動を弾圧する一方で、政府は意図的に唯神論と唯物論の対立をあおって、宗教者を政府側にとりこみ、宗教の影響力を国策に利用した。同時に皇室神道と国家とを結合させた“国家神道”を思想統制の道具として、国民に尊崇を強要した。「神社は国の祭祀にして宗教に非ず」というのが、神社参拝を強制した論理であった。(p.58)


社会主義や共産主義の思想と運動に対抗するにあたって、政府が宗教者を取り込んで利用したという指摘は興味深い。確かに、当時の政府にとっては社会主義や共産主義のように時の政府を覆そうとすることさえある思想や運動よりも宗教の方が危険性の少ないイデオロギーであるのは間違いない。

昨今では創価学会を支持基盤とする公明党と自民党が結合することで小選挙区制において大きな議席を獲得できる極めて効率的な集票マシンとして宗教が利用されていたり、日本会議も宗教団体から集票できるような仕組みを持っていることなど、政治に対する宗教の影響力が強まっているが、この場合の宗教団体も基本的に社会主義や共産主義には反対の方向で政治に働きかけていると同時に利用されていることと何か通じるものがあるように感じられる。



ミッションスクールへの圧迫

 キリスト教会への国家の圧迫は、教会に先立って教育界にあらわれている。1928年の北海道会では、札幌市立高等女学校の女教師(カトリック教会信徒)が札幌神社(現・北海道神宮)での集団参拝に加わらなかったとして(誤解であったが)、問題とされ、また、北星・藤両ミッションスクールでの三大節(この場合、神道行事である紀元節、天長節、明治節)を忠実に行っているかどうかとの質問があった。北星・藤に続く、札幌市内三番目のミッションスクールである現・光星高等学校の設立(1933年)の経過と、その後の歩みは苦難の連続であった。(p.64)


この歴史は示唆的である!宗教に限らず思想や言論や表現や集会の自由に対する政府による圧迫は、組織に対する圧迫に先立って教育を通して行われる。2006年に第一次安倍政権によって行われた教育基本法の強行採決による改悪などは、まさにこの方向に一歩進めたものであった。教育とマスメディアは思想・言論・表現・集会・結社などの自由に対する戦場の最前線であると認識すべきである。特に「おかしな動き」に対して敏感でなければならない分野であると広く認識されるべきである。



 教会の礼拝にも特高警察が目を光らせ、牧師の説教や信徒の言動が逐一、記録されていた。礼拝には国民儀礼が先立って行われた。……(中略)……。
 説教の中では、専ら聖書についてのみ語り、戦争について語らず、消極的な抵抗を示す教会がある一方、神社参拝を積極的に行い国策への協力を示して、官憲とのまさつを少なくすることに腐心した牧師もいた。なかには、北光教会の椿真六牧師のように、『日本精神と基督教』を著すなど、国粋主義の風潮が圧するなかで、日本の社会におけるキリスト教の適応を図ろうとする主張がみられた。しかし、これも体制順応のなかに埋没し、国策や天皇制思想に都合のよい聖書解釈に追い込まれるなど、国家に対するキリスト教の屈服となった。この点、日本統治下の朝鮮のクリスチャンの神社参拝拒否の闘い、神学者カール・バルトらによるドイツの教会闘争に匹敵するような抵抗を日本の教会は生み出さなかった。(p.70)


これは日本のキリスト教界が反省すべき点であろう。言論や思想信条や表現や結社の自由などが巧妙に制限されていたり、世論も国粋主義的な方向に流されていたり、といった環境の相違ももちろんあったとは思われ、こうした「精神的自由」がいかに重要なものであるか、教育やマスメディアの場でこそ強調して人々に教えられるべきである。しかし、現実は心もとない(マスメディアの状況はむしろ反対方向に向かいつつある)と言わざるを得ない。



 転々と市街を経巡っていた教会であるが、ある時期、落ち着きをみせはじめる。それは、気軽に移転できないような大会堂を建てはじめるからである。大会堂の出現の最も早い時期のものの一つ、今日、私たちが眼にし得る最も古い会堂である札幌教会堂(旧・札幌美以教会堂)が創成川河畔に姿を見せるのは、1904年(明治37)のことである。この会堂が札幌軟石で築きあげられたのは、旧会堂の焼失という苦い経験によるものであった。(p.88)


初期の教会堂は転々と市街を動き回っていたが、大会堂が建てはじめられた明治末から大正期頃に移動が落ち着くというのは、先ほど引用した明治30年代からキリスト教を受容する社会層が増大してきたという動きと連動しており興味深い。大正の頃には信徒がかなり増えたであろうことが推察される。

札幌教会堂は、北1条東1丁目に現在も見ることができるが、あの美しい教会堂は、こうした札幌におけるキリスト教の歴史的展開をも示しているものだという点は銘記しておきたい。



 聖公会(△印)の会堂は北2条西4丁目にある。会堂近くに信徒の分布があり、鉄道線以北にもある。もうひとつ南2・3条西7~11丁目地域への集中がみられる。この地域は、1896年(明治29)以降あらわれた市街地である。
 札幌の市街地は1882年(明治15)までに、おおよそ北7~南7条、東2~西8丁目間と郊外の山鼻東西屯田通が開けていた。続いて1900年(明治33)くらいまでに琴似と、西へは北5条大通間で17丁目まで、東へは南1条以南で豊平川を渡り豊平まで開け、1899年(明治32)の札幌農学校移転に伴って北へは北13条までと市街地が拡大していた。そして、その後はこれらの外側に新しい宅地が広がっていったのである(都市化過程図「札幌」国土地理院による)。(p.117-118)


札幌の市街の拡張プロセスは、川や湿地などが当時どのように分布していたのかといったこととも密接に関連しているように思われ、探求してみると単に社会的な動き(経済や人口などの動き)だけでは追い切れないように思われる。例えば、東は創成川が交通を遮る形になる面があり、北は湿地なども結構あったのではないか。地形や地質などには詳しくないが、私としては、もう少し掘り下げて知っておいてよいことであるように思われる。

札幌農学校のキャンパス移転と結びつけて北の市街地の展開が述べられているのは興味深い。


スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1131-8ab8addb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)