アヴェスターにはこう書いている?
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矢内原忠雄 『続 余の尊敬する人物』

パウロの戦った戦ひは、その後いくども文明の危機において戦はれ、人類を形式主義、律法主義の沈滞と虚偽から救ったのです。アウグスチヌスが律法主義のペラギウスと戦った武器はパウロでした。ルッターが形式主義のカトリック教会と戦ったのもパウロによったのです。内村鑑三が一切の坊主的・祭司的キリスト教と戦ったのも、同じくパウロによりました。古来すべての宗教改革はつねにパウロに帰ることによって戦はれたのであります。(p.81)


「すべての宗教改革」がパウロに帰ることにより戦われたかどうか、といことには疑問はある。例えば、カルヴィニズムはかなり形式主義の側面を強く持っている。しかし、律法主義や形式主義とされるようなものに対して信仰(内面)が重要であると主張する際に、キリスト教においてはパウロ(が書いたもの)が原点というか帰るべき場所を与えたという評価は妥当であるように思われ、そこにパウロの価値を見いだしているところにも、矢内原自身の立場が表われている。



 法王による「赦罪」の制度は第九世紀に始まったものですが、それが有価証券の形を取って、代理人によって販売せされる「神聖な商品」となったのは1393年以来のことであります。(p.91)


贖宥状は、ルター以前に100年余りの歴史を持っていたことになる。なぜ14世紀末という時点で「神聖な商品」が開発されたのか?その社会経済的な背景に興味がある。13世紀のゴシックの教会堂が次々と建てられた頃にはこのような金集めの方法は使われておらず、それより後の時代になってから始められていることの意味。

ヨーロッパにおける経済の停滞やその一因でもあったと思われるペストの流行による人口減少や社会構造の変容も影響しているのだろうか?そうした社会経済の変容によって教会の権力、特に経済・財政的な基盤が弱体化が生じたということだろうか?



 教育勅語は実行すべきものであって、礼拝すべきものではない。その実行論において、その非礼拝論において、内村鑑三は彼の基督教の信仰によって立ったのであります。しかも彼はただ論じただけではありません。彼一人が立って勅語に礼拝しなかったその行為に、恐らくは彼が意識した以上の決定的意味がありました。彼はここに偶像崇拝の精神に対して一撃を与へたのであります。日本の教育界は彼の行為をもって不敬であるとなし、日本の民衆は彼の住む家に石を投げました。しかし今では勝負は明瞭であります。教育勅語の形式的な礼拝と捧読と暗誦とは日本の国民道徳を改善しませんでした。かへつて多くの偽善がそのなかからはぐくまれました。内村鑑三がこのとき戦端を切った戦ひは近年に至って極めて激しき形で再燃し、彼の弟子たちの幾人かが同じく不敬と呼ばれ、国賊と罵られたのでありますが、奇異なことには、内村鑑三の不敬事件はあれほど著名な社会問題であったに拘らず、警察その他官憲の手が一度も彼の身辺に臨まず、是非の論争が公然と発表せられたのであります。これに比べると近年における言論、思想、並びに信仰に対する官憲の弾圧迫害がいかに大であったかがわかります。自由の国としての近年の日本は、日清戦争前の日本に比して遥かに退歩してゐたのであります。国の敗れ、衰へたこともまた当然であります。形式的な尊王愛国論が栄えて、心霊の自由を重んずる「平民的思想」の乏しきところ、国は興隆するはずがないのであります。そのことを内村鑑三は身をもって叫んだのであります。(p.166-167)


教育勅語が実行されるべきものだったかどうかは別として、「律法主義・形式主義との戦い」の問題として信仰と教育とを同じ問題の構図において論じているのが面白い。

教育勅語(の形式的な礼拝と奉読と暗誦)は道徳を改善しなかったという指摘は現在においても共有されるべきものであろう。その内容の面に対する批判がないのは、本書が発表されたのが戦後まもない時期で教育勅語が刷りこまれている人々が多かった時代であることも反映しているのかもしれない。

内村の時代(日清戦争以前)よりも、日中戦争から第二次大戦の頃の方が言論や思想への弾圧が強く、自由がなかったというのは事実だろう。ただ、内村と比べて矢内原が彼が置かれた時代の世相に対する抵抗ができなかった理由を弁明するような意味合いもあるように思われる。



 不敬事件を惹起したのちの内村鑑三は大阪に移り、熊本に移り、京都に移り、名古屋に移り、転々として居を移しつつ、他人の階段の昇りにくく、他人のパンの塩からきをつぶさに経験しました。それはフィレンツェを追放せられたダンテに比すべき流竄の生活でありました。彼は大阪や熊本の学校に勤めましたが、どこでも衝突して長続きしませんでした。(p.167)


内村鑑三は偉人、少なくとも偉大なクリスチャンとして描かれることが多かったように思われるが、「この世的な基準」で見ると社会にあまり適応できない人であった節がある。



I for Japan;
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God.(p.175)


内村鑑三の墓石に刻されているという有名な言葉である。小学生か中学生の頃に学校で先生から聞いた覚えがあるが、恐らく今の子供達にまでは伝わっていないのではないかと思われる。今の子供達が教わる言葉はどのようなものなのだろうか?

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