アヴェスターにはこう書いている?
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内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その3)

小樽市内で入舟町ほど隣接町の多い町はない、これは一面入舟町が小樽発展史における中枢地区であったことを物語るものでもある。……天狗山から海岸続くこの町が同じ町内に下町と山の手という二つの違った両面を持つのも無理ではない。5丁目から以西9丁目までは住宅地であり1丁目から4丁目までは純然たる商店街でありその中間が工場外を形成している。明治4・5年前までは土人部落であったが、住吉町一帯にアイヌが移住し11年から14年まで公認貸し座敷が許可され、それが住ノ江町遊廓の移籍と共に明治20年を中心として入舟街小売の繁盛となったのである。主なる物産問屋や港町に軒をならべ入舟町は専ら市内向けの雑貨、花柳界宛て込みの呉服屋、大三岡田、山三山田などが巾を利かせていた、明治30年代から小松を始め戸出物産などが卸専業の店を構え南小樽駅との連絡に便利な位置としてだんだん卸屋街に変わった……。入舟町が真に織物問屋に進んだのは欧州戦争ころで南小樽駅へ殺到する七島包みの織物の出荷は年々増した」(北海タイムス社、「おらが町内人記」:31)。(p.260)


入船町が小樽発展史の中枢地区という発想は斬新に感じられる。歴史の実態を捉えているかは別として。



 花園町の場合、町内の成立が小樽の発展=人口増と関係する。……(中略)……。「……(中略)……17年1月になって漸く花園町が新設せられた。これは南部入舟町添と北部の於古発添に住家が建設せられたので行政の運営上独立の町名を付けざるを得なくなったからである」(『花園町史』1962:1-2)。
 当時の花園町はその大部分が草原であった。「新町名が設置せられたが最初に建物が建築されたのは明治15年で現市役所の場所に避病所が出来たのがそれである。小樽は、大正4年全市及ぶ町名番地の変更を実施した。その結果、錯綜していた「入船町と花園町の境界が整理」されることになった」(『花園町史』1962:98)。(p.262)


花園町というと、現在の小樽では商業などの面では衰退の傾向にあるとはいっても、一応、市の中心的な地区の一つと言ってよい地域である。明治17年になって漸く町名がつき、その頃にはまだ草原であったというのは容易に想像できない意外さがある。隣りの稲穂町が沢だったことも併せて考えると、明治後半にいかに市街が急速に発展したかが想像できる。



最下層には日雇いの港湾労働者があった。しかし、都市小樽の再生産にかかわる射程を、この都市に石炭を運び、この都市を成立させる一因となった幌内炭鉱にまで広げてみると、繁栄する都市小樽を支えた真の下層民が都市小樽の内部にではなく、都市小樽の外側における幌内炭鉱にあることが明らかとなる。われわれはともするとこの視点、都市の繁栄を支えた資源供給地における人々を見逃しがちである。幌内を嚆矢として開発されていった北海道の炭鉱とその炭鉱で働いた労働者たちこそ、囚人を含め過酷な作業に堪えた労働者たちこそ、都市小樽の発展=再生産を、「最底辺」において支えた人々であり、都市小樽の形成史において忘れてはならない人々である。(p.282)


この視点は本書で最も興味深かった点の一つであった。都市の最下層民は都市の内部にいるとは限らず、むしろ、都市の外にいる。都市を考える際にも、行政的な区域で完結して考えるのではなく、より広いシステムの中に位置づけて考える必要がある。



 囚人労働は北海道開拓史を特徴づける強制労働の源流であった。
 「北海道開拓史を特徴づける強制労働とは、〈集治監囚徒〉(囚人)と〈タコ部屋労働者(タコ労働者)〉と戦時中に強制連行された〈朝鮮人・中国人の強制労働〉」を指すものであった」(小池喜學 1983:280)。(p.287)


北海道の「開拓」において忘れてはならない側面。



 もちろん、幌内炭鉱にも囚人は動員されている。
 「明治15年(現在三笠市)に空知集治監が設置されたのは、幌内炭鉱に外役所を設けて囚人を投入するためで、以来27年11月まで囚人は幌内炭鉱の主要労働力であった。……(中略)……。」(小池喜學、前掲:293)。(p.289)


これが都市小樽の最底辺の労働者である。



 都市小樽における下層貧民と炭山における底辺層は共に厳しい搾取にさらされた人々であったが、北海道炭礦汽船株式会社は前近代的制度に依存して成長した。その初期段階で不安定であった炭山と鉄道経営を成長の軌道に乗せるまで、国家による惜しみない支援が行われ、賃下げや拂下げによる富の民間移転、事業の官業から民業への移転が実施された。北海道炭礦汽船株式会社は藩閥を中心とする、少数の特権的、特恵的階層や華族の資本参加によって富を築き、圧倒的多数の下層労働者は徹底的に収奪された。(p.311)


北炭が「前近代的制度」に依存して成長したと本書は指摘するが、世界システム論的な見方では、この奴隷制的な労働搾取はむしろ、「近代的」なものとされているものだろう。



〈むかし炭鉱、いま原発〉 次々に起こるニュースに見入る中で、思わず頭に浮かんだ言葉だ。福島の原子力発電所は、長い間、首都圏にエネルギーを送り続け、人々の生活を支えてきた。いわばフクシマは、日本の経済を動かす心臓部だったとも言えた。同じように、かつて日本全国の炭鉱から掘り出された石炭は、明治以降、日本の発展をささえてきた。そんな日本を動かすエネルギーをつくり出してきたのは、いつも地方の、名もない無数の労働者であった。構造があまりにも似ていた。だが、同じに見えても、炭鉱と原発には決定的な違いがある。炭鉱は文化を生みだしたが、原発は文化を生みださなかった」(熊谷博子 2012:1-2)。(p.315)


確かに明治期の炭鉱と現在の原発とは構造が非常によく似ている。非常に鋭い指摘である。炭鉱が文化を生みだしたという点で原発よりも肯定的な評価となっているが、その評価の根拠となっている文化とはどのようなものを指しているのだろう?私としては炭鉱都市における相互扶助の仕組みなどが想起される。



幌内鉄道の敷設に黒田清隆のもった影響力は絶大であった。黒田なくして幌内鉄道はなく、結果的に小樽の発展もなかったといえよう。(p.317)


明治初期の北海道における黒田清隆のはたらきは非常に大きなものがある。



榎本は小樽に「地所熱」をもたらした。小樽は大きな地主を誕生させたがその背景に榎本・北垣による土地取得があった。(p.317)


「地所熱」が発生するには、この頃(明治後半)にはそれが発生するほど経済力がある者がいたという背景が必要である点に留意しておこう。

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