アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その1)

都市=小樽の構造は、まず何よりも、国家の意思=権力によって規定されている。都市=小樽の発展の端緒は明治国家の北方政策であった。……(中略)……。
 ……(中略)……。小樽の経済的繁栄を原初的に規定したのは明治国家の意思と権力であった。明治国家の意思と権力に依存していた限り、小樽は大きな制約を有していた。具体的に言えば小樽における発展の可能性と都市自治は明治国家の枠を超えることができなかった。(p.15-16)


小樽という都市を見る視点としては適切な見方である。本書のこの部分をもう少し敷衍すると、小樽というより北海道開拓自体が明治政府の北方政策に大きく規定されており、その北海道開拓という事業において小樽という都市が極めて重要な位置を占めていた(占めるように政策により規定された)、と理解すべきだろう。



 顧みて、こうした小樽の発展にとって重要な契機をなした出来事は開拓使の設置であった。小樽にとって開拓使の設置は大きな意味をもっていた。開拓使が陸海運輸の近代的基地をここに定めたことは小樽発展の基盤が開拓使によって始まったことを意味している。小樽の繁栄を約束した全国第三番目の鉄道と築港によるインフラの整備は開拓使にその淵源をもつものである。小樽港を活用する機関、船会社、銀行が次々と立地した。開拓使は、「小樽市における生産業の燭光は実に漁業に始まる」(小樽市役所 1949:28)といわれる事態=漁業の小樽という歴史に大きな転換をもたらした。官営事業をはじめ開拓使の先駆的方針は後の小樽産業の発展に寄与するところ大であった。明治13年、機関車や各種鉄具製作・客車・貨車などの製造と修理のために設けられた手宮工場はその象徴である。(p.43-44)


この部分には、一つ前の引用文に対するコメントで私が述べたことと共通の認識が示されているように思われる。

開拓使が札幌に設置され、小樽がその外港となったことにより、「漁業の小樽」に大きな転換がもたらされたという認識は適切であろう。もちろん、明治期には漁業も小樽の繁栄にとってまだ大きな位置は締め続けるが、逆に言えば、札幌の外港であり北海道の物資の玄関口とならなければ、漁業が廃れた時点で小樽の経済発展は止まってしまっていたと見てよく、大正時代に全盛期を迎えることはなかっただろう。

余談だが、以上の引用文で「全国第三番目の鉄道」と呼ばれている幌内鉄道は、(その約9か月前に岩手県の釜石鉱山鉄道が開通しているため)厳密には三番目ではないことが明らかになっており、四番目かどうかという確証が得られていないこともあって、最近では「北海道最初の鉄道」と呼ばれることが増えている。

ちなみに、「手宮工場」があった場所は現在の小樽市総合博物館本館がある場所であり、現在も現存する国内最古の機関車庫や明治15年にアメリカから輸入されたSLしづか号(7100型)、大正時代の転車台、国産の機関車として2番目に製造され、現存では最古の国産機関車「大勝号」(7150型)などが展示されている。



小樽の周縁部に下層階級の居住者が多く、内部には大体中流以上の者が住んでいるという事は前記貧民層の研究において述べた通りである。更にこの研究に依り南部及び北部には下層階級中でも生活能力を有するものが多く居住し、中の沢付近には生活能力の小なるものが多く住んでいると云う事になるのである。……以上を要約すれば小樽の日雇労働者の大約は手宮富士付近に、残りの大部分は勝納川下流沿岸に住み、中部には僅少であって、その分布状態は大体において貧民の分布と似ているが、中の沢部落には殆んど日雇を見ることが出来ない。即ちこの現象は港小樽の荷役を反映するものである」(渡辺祐一郎1936:1-4)(p.60-61)


渡辺祐一郎とは、昭和初期の庁立小樽中学校の生徒であるらしいが、旧制中学ってこんなにレベル高かったのか?と思わされる内容である。

昭和初期の小樽の地区ごとの社会階層の居住状況。「中の沢」というのは聞きなれない地名だが、私の推測では、現在の入船町あたりで、国道5号線より山側ではないかと思っている。確かに、この地域は仕事をするには川も海も遠い(当時はメルヘン交差点に流れ込む川があったようだが、勝納川のように工場があったわけではないようだ)。

手宮富士というのは、現在の石山町、長橋、稲穂5丁目あたりで囲まれた山を指すらしい。石山町界隈はいかにも労働者の町だったという雰囲気が今でも感じられる。手宮よりもこの界隈の方が運河に近く、当時の港湾労働者にとっては好都合な立地であることは頷ける。勝納川周辺に工場があったため、この周辺にも労働者が多かったというわけだ。

職場と住居の関係、経済的な階層と居住地区の関係が分かると地区ごとの特性もいろいろと見えてきそうだ。



「手宮の石炭桟橋は明治45年から使われていた。……昭和11年には114万トンをここから京浜方面に送った。日本を代表する重工業地帯の、ライフラインを支える桟橋のIGR(インペリアル・ガバメント・レールウェー)の大文字は港を睥睨していた。その頃手宮の労働者は鉄道員と人夫に二分された。鉄道員はエリートで、垣根をまわした官舎に住まいし、水汲み女を雇えた。官舎は手宮公園への傾斜に段々と広がっていた。人夫の多くは、手宮を流れるドブ川沿いの長屋に肩を寄せ合うように暮らしていた。石炭人夫千人、沖中人夫千人がここにいた。人夫のほとんどが日銭稼ぎで、波止場の朝は仕事をも求める人夫たち、艀の出入り、石炭列車の入れ替え、機関車、サンパンの汽笛で戦場になった。……」(北海道新聞社 2002:16)(p.62)


手宮の中でも階層があったという指摘。ところで、人夫があたりに住んでいたドブ川とはどこにあったのだろうか?



渡辺祐一郎によって確認された地形が形成される一方、富裕層や名望家がそして中間層が多く居住する地域が分化・形成されていく。小樽の場合、富裕層の住む水天宮の丘や日銀支店長の公舎がおかれた富岡町そして富裕層の別荘や中間層が居住した緑町は、いずれも高い所に位置する場所で、明らかに、北部の手宮などとは趣を異にした異国情緒を漂わせた地域であった。(p.63-64)


ここに指摘されている居住地区の相違は、現在の歴史的建造物(のうち、住宅)の所在を見ても分かる。旧板谷邸や旧寿原邸は水天宮の丘にあり、富岡町には旧遠藤邸(現在は立正佼成会が使用)などがある。緑町のあたり(住所としては入船5丁目だが、緑町と隣接)には先日、公開が終了してしまったが坂牛邸がある。



 港湾労働者の内部もまた階層的に構成されていた。常雇と日雇・臨雇は別であった。艀の労務者も、大頭・小頭・船頭・道具方・常雇に分かれていた(北海道立総合経済研究所、前掲:15)。常雇・日雇いを含めて小樽における港湾労働者の社会的地位は低いものであった。その一因は彼らの得る収入にあったというよりは港湾労働者の杜撰な雇用形態と過酷な労働条件にあった。「昭和2年当時、小樽にどの程度の港湾労働者がいたかを明確にする統計はない。それなのに工場労働者については明治43年からの統計がある。大きな違いである。その頃朝鮮人労働者もかなりいたが、それについても、わからないことが多い」(毎日新聞社1985)という事態は彼らの社会的地位の低さを物語る。
 発達・成長する小樽は、統計に表されることにない人々の世界を、絶対に必要な部分として抱えていたのであろる。かれらは名望家の対極に位置していた。名望家は記憶され記録された人であるが、労働者や下層民は忘れられ記録されていない人間である。戦前に小樽のコミュニティを生きた人はそのような人々であった。(p.73-74)


統計に表れるか否かということをメルクマールとして社会的地位の程度を推定しているのが興味深い。

社会的地位が低かったことやどの程度低かったかを具体的に示すには、別の資料からももう少し説明する方が良いようにも思うが、社会的地位が高いほど記録が残りやすく、低いほど忘れられた存在になりやすいというのは、傾向としてはその通りであるように思われ、個人としてではなく数としてすら記録に残らない人々の社会的地位はかなり低いものだったと見ることは可能であろう。

また、この箇所で注目しなければならないのは、昭和初期の頃に朝鮮人労働者もかなりいたという指摘である。日本の近代化の過程において底辺の労働者として、こうした人びとがおり、社会的な待遇は必ずしも良くなかったということは知っておく必要があることであると思われる。

スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1127-33acea9d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)