アヴェスターにはこう書いている?
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潮木守一 『アメリカの大学』

しかし当時のドイツの大学はアメリカのどこかのカレッジを卒業してさえいれば、それだけで自由に入学を認めてくれた。この自由に入学を認めてくれるシステムは、アメリカ人学生にとっては、大変魅力的であった。(p.19)


19世紀のアメリカにおいてドイツの大学への留学が多かった理由がいくつか説明されているが、恐らく最も重要なポイントの一つはこれだと思われる。

本書によれば19世紀のアメリカのカレッジの教育程度はそれほど高くなかったようだが、それでも卒業していればドイツでは自由に入学できるようにしていたのは何故なのだろう?



 19世紀のアメリカのカレッジは、まずなんといっても「子どもの学校」であった。ちょっと富裕な家庭では少年が15-16歳になると、カレッジにかよわせた。カレッジの学生の多くは10代の子どもであった。この点がドイツの大学とは決定的に違っていた。ドイツは早くも19世紀の初頭に、ギムナジウムを制度的に確立させ、「子どもの教育」はギムナジウムにまかせ、大学は「大人の学校」として成立した。これに対して、アメリカのカレッジは、子どもを一人前のジェントルマンにしあげる学校として出発した。この点にドイツの大学とは基本的な性格の違いがあった。(p.24)


興味深い対比。未成熟な子供を一人前のジェントルマンに仕上げるということは、知的な教育だけではなく道徳的な教育を行うという意味合いがある。

本書を私が先日読むことにした問題関心の一つは、札幌農学校に関する理解を深めるという意味合いがあった。この観点から言うと、1876年にクラークが札幌にやって来て、校則については「Be gentleman」だけでよいとした逸話があるが、当時のアメリカのカレッジの性格を踏まえるとこの言葉が出てきた背景が理解できるように思われる。クラークは、当時の札幌農学校の学生たちに対して、あなた達は既にgentlemanであるから、そのとおり振る舞えという意味で言っていたと思われるため、本書で述べられているような「子どもの学校」のような扱いはしていない点は本書の描くアメリカのカレッジとは異なっていると言える。しかし、クラークも道徳教育を重視した点ではアメリカのカレッジの伝統と軌を一にしていることが分かるし、その理想ないしモデルがgentlemanであるということもアメリカのカレッジの伝統と一致している。ある意味、当時のアメリカのカレッジにおける伝統的な考え方がクラークの教育理念にも色濃く反映しているらしいということが見えてくる。

ちなみに、発足当初の札幌農学校の教育課程がリベラルアーツを重視したという点も、マサチューセツ農科大学をモデルにしたと札幌農学校関係の文書ではしばしば指摘されるが、本書からはもっと広い文脈の中で位置づけることが出来る。すなわち、当時のアメリカのカレッジ一般に見られた傾向であったことが本書から理解できる。(ちょうどその頃にアメリカのカレッジも徐々に変わり始めていた時期であることも本書から分かるが。)



 まずエリオットが直面した問題は、どうやったら学生の学習モティベーションを高めることができるか、という問題である。この問題はすでに見た通り、ティクナー改革のきっかけでもあった。いつの時代においても、いかなる社会においても、大学はつねにこの問題につき当たる。この問題から解放された大学はほとんど実在したことがない。(p.122)


同感である。

なお、モチベーションが上がらない要因はいろいろと考えられるが、少なくとも現代においては、学ぶことの目標が明確にしにくいこと、自由度が高すぎることが背景の一つとなっていると思われる。それとの対比では、受験勉強は頑張りやすい勉強である。



すでにいくつかの研究によって明らかにされている通り、19世紀初頭までのハーバードの卒業生は、多くが牧師となって行った。つまり彼らの職業目標は聖職者という比較的単一な目標に向けられていた。ところが、こうした状況は19世紀中葉にはすでに崩れていた。学生の多くはもはや牧師を目指してカレッジに集まってくるのではなく、彼らの職業目標はもっと別なものに広がり、それだけ多様化していた。(p.123)


19世紀半ば以降のアメリカの大学が改革を必要とした大きな要因。この更に背景には社会の階層や産業の構造など様々なことが横たわっていると見るべきだろう。



大学はもともと、人生のなかで最もエネルギーの高まった青年たちの集団であって、その彼らがすすんで勉強にエネルギーを集中させるような状態は、ごく稀にしかおきない。大学はもともと、「遊び文化」と「勉強文化」の微妙な拮抗の上に成り立った集団で、ともすれば、「遊び文化」が優位を占めることの方がはるかに多かった。知的好奇心に燃え、勉強に没頭することを好む青年は、いつの時代でも、どんな社会でも、ごく少数の例外者でしかなかった。(p.124-125)


本書の叙述の中で、目が開かれた箇所の一つ。

「遊び文化」と「勉強文化」の微妙な拮抗、それも「遊び文化」が基本的に優位にあるのが常態であるという認識に立つことで、大学生という立場について非常に的確な理解を得やすくなるように思われた。多くの大学生はそれほど勉強はしないが全くしないという者は少ないし、大学の正規のカリキュラムに沿った勉強にはそれほど力を入れない場合であっても、その他の活動によってそれなりの人生経験を積んだり、人間関係を広げたりといったことは行っている人は少なくない。これが「遊び文化」が優位な中で「勉強文化」の中にもいるという状態であろう。

個人的には大学時代を過ごす人にとって、「勉強文化」はある程度の勢力がある方がよいとは思うが、「遊び文化」の質がどのようなものであるのかが人生にとって非常に重要な意味を持つのではないかと思う。



 もともと彼は近代語の教授として採用されたものの、就任当時、彼はドイツ語も、スペイン語も知らなかった。理事会はたとえそれらを知らなくても、数ヵ月もヨーロッパに行ってくればマスターするものだと思い込んでいた。1855年頃のハーバードの教授の採用のしかたとは、この程度のもので、教師の専門研究者としての資質など、たいして重視していなかった。こうした形でハーバードの教授となったローエルにとっては、1880年頃から始まった研究中心主義、業績主義について行けるわけがなかった。(p.250)


杜撰さに驚く。研究機関としての側面をほとんど持っていなかった当時のカレッジの実状を物語っている。



 このスロッソンの記述が物語るように、19世紀から20世紀への変わり目の頃、ウィスコンシンの教授たちは、大学外のさまざまな行政活動、立法活動にブレーンとして参画し始めた。とくに1892年、エリーがウィスコンシンに来てからは、彼はその「経済・政治・歴史学部」を「公共政策のためのウェスト・ポイント(士官学校)」にしあげようとした。彼はここを拠点として、アメリカ社会に現に存在する諸々の政治上・経済上・社会上の諸問題を研究上のテーマとしてとりあげ、大学をもって、これら諸問題解決のためのコンサルタント機関にしあげようとした。つまり彼は次第に登場し始めた社会科学を、社会改良のための応用科学として完成しようとしたのである。(p.288-289)


現代も大学教授の一部はこのタイプの活動を積極的に行っている。アメリカでは20世紀になる頃にこうした動きが強まってきたらしい。アメリカ以外の動向も気になる。例えば、日本では北海道開拓の際に札幌農学校が設けられ、台湾や韓国を植民地化した後にはこれらの地域にも帝国大学が設置されているが、これらには植民地経営に資する研究と教育を行ない、ブレーンとして仕事をさせたり養成していくという思惑があったと言えそうである。



 ひるがえって考えて見るならば、大学教師ははじめ文字通り、教える人として、この世に誕生した。しかし、研究という役割がつけ加わることによって、大学教師は教育と研究の二股をかける二重人格として変身した。そしてさらに、学内行政という役割が加わることによって、今度は三重人格となり、さらにはまた、学外活動という役割が加わることによって、四重人格として変身することとなった。機能分化・分業化を常とする現代にあって、大学教授だけは、この時代の流れとは逆行して、機能増殖、機能拡大という世にも稀な宿命を担うこととなった。
 しかしこれらの四つの役割を一身に担うことは、多かれ少なかれ、時代遅れのアクロバットを演じるようなものであった。……(中略)……。
 かくしてここに、「教育型教師」「研究型教師」「運営型教師」「学外活動型教師」といった諸類型が出現し、それに対応するサブカルチュアが大学教師の間で分化することとなった。(p.291-292)


大学教師の役割の重層化が、ここに述べられている順で歴史的に展開してきた面があることを本書は示している。これは興味深い指摘であり、大学教師の役割についてのなかなかうまい整理であるように思われる。

思うに、私が学生だった頃の私の講座の教授は「運営型」に近い人だったように思う。当時の助教授(准教授)や助手は間違いなく「研究型」であった。当時、教授と助教授や助手とを比べて、多くの人が明らかに研究者としての能力や資質において助教授や助手が優れていると感じ、「何故、彼が教授なんだ」と思っていた人も多かったように思うが、こうした整理をしてみると、教授が「運営型」であり、その中でも興味深い研究を行っている研究者に対する感度や受容度が高かったことが、優れた研究者を自らの下に置くことが出来た理由だとも考えられ、そうだとすれば、単に研究する力だけがあればよいというものではなく、研究室全体として見た場合には、各種の運営手腕というものが問われる場面がある(むしろ研究費の調達などに手腕が必要なことが多いだろう)ということを認識することは重要であることが容易に浮かび上がってくる。


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