アヴェスターにはこう書いている?
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荒井宏明 『なぜなに札幌の不思議100』

 北側は、大友亀太郎の測量によって造成した大友堀(現在の創成川)を軸線としていますが、この軸が西に約9度傾いています。大友掘を基準にして、東西の通りができていったのですから、大通なども東西の軸がずれています。
 それに対して南側の山鼻地区は、ほぼ南北に合わせてつくられた兵村中央道路(現在の石山通・国道230号)を軸に道路を敷設しています。
 この2区画が互いに広がって接したのが南3~4条のあたりです。(p.24-25)


札幌は碁盤の目と言われるが、元々複数の村が繋ぎ合わされているため、それらの繋ぎ目毎にこうしたズレがある。したがって、この種のズレに着目することで札幌の市街の歴史的展開が見えてくる。この視点は、札幌の街を見るにあたってポイントの一つになる。



 七福神信仰は室町時代末期に、日本・中国・インドの神々が組み合わさって生まれたものです。徳川家康の政治指南役・天海僧正が推奨し、江戸期の庶民の間で大流行しました。(p.28)


室町時代は大陸との交易が相対的に大きかった時代であり、この時代に中国やインドの神々と土着の神々が組み合わされたというのは、なるほどと思わされる。これが江戸時代に流行したというあたりは、もう少しその経緯を知りたいところである。家康の政治指南役が推奨したというあたりからすると、政治的な目的があったのだろうと推測するが、それがどのようなものだったのか?また、実際にこの信仰が広がったことでどのような効果が得られたのか?興味をそそられる。



もともと大通の西10丁目以西は屯田兵の練兵場で、屯田兵制度が廃止になった後に大通の一部になりました。しかし、利用する人は少なく、ゴミ捨て場や雪捨て場にされてしまいます。(p.53)


大通の歴史というと札幌市資料館で紹介されているのが想起されるが、私が以前訪れた際に見た際には、このあたりのことは印象に残っていない。紹介されていたのだろうか?次に訪れるときに注意して見てみよう。(以前訪れた際の資料も見直してみたい。)



それぞれの区画で南北に走る車道があるのですが、なぜか8、9丁目だけがつながっています。しかし、もともとは他の区画と同じく、南北に抜ける車道があったのです。
 今から約20年前、札幌市が世界的彫刻家イサム・ノグチ氏に「大通公園のシンボルとなるような彫刻を」と制作を依頼しました。札幌市は9丁目のクジラ山(滑り台)を撤去して、ノグチ氏の作品を置こうと考えていました。しかし、1988(昭和63)年に現地を訪れたノグチ氏は、歓声を上げながらクジラ山を楽しんでいる子どもたちを見て、それを拒否します。そして8、9丁目間の道路の真ん中に立つと「ここがいいね」と言いました。
 クジラ山を残し、自分の作品を置くことで2丁画をつなげ、子どもたちがのびのび遊べるようにしよう、と提案したのです。(p.54) 


大通の歴史はなかなか面白い。

こうして最終的にこの場所に置かれたのが「ブラック・スライド・マントラ」という作品だという。この作品が現在の大通のシンボルとなっているかどうかはやや疑問という感じはするが、話としてはいい逸話。(上記の引用文の後の経過も含めて興味深い。この冬にはノグチは死去し、市は最初は西8丁目に作品を設置したが、その後、故人の意思に従って道路をふさいだという。)

機会があれば、子どもを連れて遊びに行ってみたい。



 明治の初期は、創成川に接した南1条あたりがもっとも賑わい、そこを軸に民家も広がっていました。一方、北海道開拓使本庁舎(現在の北海道庁本庁舎)から駅前通あたりは地価が極端に安く、商店などもまったく栄えませんでした。
 しかし、草木が生えるままにしておかないのが、明治人の律義さです。1874(明治7)年からその翌年にかけて、開拓使は、南北は北5条から北1条、東西は西4丁目から西8丁目、現在でいうと札幌グランドホテルやHBC、道警本部、毎日新聞社北海道支社などが丸ごと入る一帯に大規模な果樹林を設けたのです。……(中略)……。
 1880(明治13)年になると、石炭輸送のために手宮鉄道が開通。創成川による水上輸送から陸上輸送へのシフトが始まり、賑わいの中心線が現在の駅前通に移りました。そうなると、いつまでも果樹林にしておくわけにもいかず、一帯は行政や民間の建物が並ぶ地区へと変わっていきます。


 明治初期の札幌の市街の変遷もなかなか興味深い。物流の中心が創成川(大友掘)だったときはそこが軸であったが、鉄道に物流の中心が移ると駅前通が軸となった。

なお、果樹林の西側に接続するような場所に現在の北大植物園が設置されている。札幌農学校の植物園が設置されたのが明治19年であることから推すと、果樹園がなくなっていく中にあって、植物園がその西側に残された形になる。これらの間に何らかの関係があったのか?興味が惹かれる。


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