アヴェスターにはこう書いている?
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夏堀正元 『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』(その1)

 藤山要吉よりすこしあとのことになるが、明治なかばには金子元三郎(のちの貴族院議員)もあらわれた。……(中略)……。
 なかなか肚のすわった若者で、中谷宇吉という小樽商工会の切れ者とともに、明治20年代はじめに朝鮮独立の志士で日本に亡命していた金玉均をかくまって、朝鮮から送りこまれる暗殺団から守っていた
 ……(中略)……。明治24L年、金子は若干22歳であった。
 当時、金子は新聞の発刊を計画していた。
 「札幌には『北海道毎日新聞』があるが、小樽にはまだ新聞がない。しかも『北海道毎日新聞』は道庁の補助を受けているから、いわばお上の御用新聞だ。ほんとうの拓殖上の世論を反映したとはいえない新聞づくりをしている。これは同紙が本道の新聞界を独占しているからである。したがってぼくは道庁の補助を受けない自由な新聞をだすことで、北海道の世論を正しく喚起したいのである」(p.38)


金子元三郎については、経営していた店舗の建築(明治20年竣工)は現在も残っており、『北門新報』という新聞を発行したことで知られているが、朝鮮独立の志士をかくまっていたとは意外だった。どちらかというと政治思想的には保守的な部類に属するのではないかと私は思っていたので、特に意外だった。

後段は『北門新報』を発刊する金子に動機について語らせている箇所。当時の北海道の言論状況の一端が垣間見えて興味深い。



 社説が兆民らしくなるのは、すべて属官まかせで東京に栄進して帰ることしか念頭にない薩摩の陸軍少将永山武四郎道庁長官(前長官・参議・首相を歴任した黒田清隆の子分)を非難した「北海道庁」、さらにまた千坪一円で大土地を払い下げるという、金持と官員優遇策の矛盾と醜行を衝いた「日本国の富海」「六千余方里の土塊」などの論説であった。(p.42-43)


前述の『北門新報』は、中江兆民を主筆に招いたことでも知られる。中江兆民による永山武四郎に対する批判は、永山が遺言に従い北海道に埋葬されていることを考えると、必ずしも全面的に首肯できるものではないように思われる。



 「その榎本さんですがね、芸者好きはともかくとして、明治なかばには小樽の中心部に二万坪とか三万坪の土地を政府からただ同然に貰っていたんでやすから、驚きでさね。まったく官員サマサマの時代スよ」
と、裁判所書記の桑山甲介は貞二郎にいって、ケッ、ケッ、と笑った。あの清廉ともみえた榎本が、そんなことをしていたのか、と貞二郎は驚きの色を隠せなかった。
 「まったく維新政府なんてものは、北国の自然の猛威にあえぎながら生活している庶民など、まったく眼中になかったんスな」
と、桑山は赤い舌先をちょろりとだすようにして喋りだした。
 「北海道は政府のお偉方が財閥づくりに狂奔した土地でやす。早い話が、幌内炭鉱から札幌をへてこの小樽に敷いた鉄道と、政府があれほど大切にしていた高収入を生んだ幌内炭鉱を、明治22年に破格の安値で三井財閥に払い下げたんでやす。(p.58-59)


榎本が取得した土地(現在の小樽市稲穂)には、「梁川通り」という榎本の雅号から名前をとった通りが未だに存在している。
北海道は政府のお偉方が財閥作りに狂奔した土地であるという認識は興味深い。幌内鉄道と炭鉱を三井に払い下げたという指摘に対して、これを聞いた夏川貞二郎は「開拓使官有物払下げ事件」と同じではないかと指摘した。これに対して、本書は次のように言う。



 「まさにおっしゃるとおりスよ。ただし、あのときとは違って、スキャンダル扱いされるのを避けるために、三井側は周到な根まわしをしたんでさ。まず黒田首相(明治21年4月就任)の確約をとりつけたうえで、内大臣三条実美を通じて皇室を大口株主にしてしまったんでやすよ。皇室をもちだすなんざ、口封じにはうまい手でやすな。
 それから渋沢栄一、福沢諭吉の了承を得て、有力財界人や華族らを発起人にして、判事もよくご存知のいまをときめく北海道炭鉱鉄道会社をあらたに興したっちゅうわけス。そしてこの会社を基点として、やがて夕張炭鉱、空知炭鉱を開いていき、北海道における三井王国をつくりあげていったんでやす」
 「しかし、三菱も黙視していたわけじゃあるまい?」
と貞二郎は訊いた。
 「もちろん、三菱は北海道の定期船や海上輸送をがっちりとおさえてましたよ。ま、三菱は北海道だけじゃなくて、政府の手厚い保護を受けて、全国の海運業界を独占していたといわれたくらいスからな」
 三菱が海運業界の覇者となったのは、明治7年の台湾侵略がきっかけだったことは、貞二郎も知っていた。大久保利通や大隈重信に取りいって、軍需物資の海上輸送の認可を受けたのが、三菱を「海運王」といわせる大きな契機となったのである。
 だが、桑山書記の話によると、明治15年ころには三井を中核にした資本金600万円(うち政府出資260万円)の共同運輸会社がつくられて、三菱に挑戦したという。小樽の港には三菱と三井の船が入り乱れ、ついに運賃のダンピング競争にまで発展した。そしてこの抗争は明治18年に両者が合併して日本郵船会社が創立されるまでつづいたということである。その一方で、三菱は三井に対抗して政府の認可をとって道内各地に炭鉱を開いていった。
 「なるほどね、明治中期までの政官財癒着が小樽に活気をあたえ、富をもたらしたということになるのかね」(p.60-61)


明治期の北海道を語ると必ず出てくるのがこの「北炭」である。北炭の誕生と日本郵船の誕生のいずれにも三井が絡んでおり、ここにおける政官財の癒着が小樽の繁栄を支えていたことが最後に指摘されている。

北炭と日本郵船という会社のこと、そして三井の北海道や台湾などでの活動については、以前から謎に包まれている部分が多いので知りたいと考えている。これらの問題の関連を本書のこの部分は簡単に指示してくれているように思われる。

また、三菱が海運業界の覇者となったのは、台湾侵略がきっかけというのももう少し掘り下げて知りたいテーマである。

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