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アヴェスターにはこう書いている?
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新田一郎 『中世に国家はあったか』

中世人が自分たちの住む世界についてどのような空間的イメージをいだいていたのか、考えてみよう。
 ・・・(中略)・・・
 もっぱら推測にわたるが、そもそも、空間把握については、古くから「水行一月陸行三月」などという表現方法が用いられているように、面的な拡がりをもった認識よりも、動線にそった認識が先行したのではないか。・・・(中略)・・・つまり、国家の作用は、具体的中心との関係にそって調達される政治的資源に対応し、中心からの距離が国家の作用にとって重要な媒介変数であった可能性が考えられる。・・・(中略)・・・
 そこで現出するであろう漠然とした境界領域を、ブルース=バートンは「フロンティア」と呼び、近代国家の国境線のように一次元の線をもって内外を鋭く分かつ「バウンダリー」と区別することを提唱した(バートン、2000)。(p.54-60)



中心から出る動線にそって、中心からの距離に応じて権力の密度が減衰する場のようなものとしての空間認識。ある程度遠方の土地に関する空間認知としてはこうしたものはありえたであろう。古い地図などと共にこれらについての解説を読むことによって、こうした空間認識に対する私の認識が深まったのは収穫であった。




 ところで、榎本淳一によれば、十二世紀後半の宋の史料にみえる「日本商人」は「日本人」ではなく、「日本から来た、あるいは日本と行き来している商人」を意味し、多くの場合実際には宋人であるらしい、という(榎本、1999)。・・・(中略)・・・。一方で、宋の側では彼らを(日本と行き来している)「和朝の来客」と把握していたらしく、こうした形容は、帰属関係について語っているのではなく、彼らの通交先を表現している、とみるべきなのではなかろうか。帰属関係を論じようにも、官人であればともかくとして、異域間を通交する民については、いずれの「国家」に属するかを確定すべきインデクスはそもそも存在しない。フロンティアを舞台に活動する人々について(たとえば中世後期に跳梁した「倭寇」について)、「彼らは何人か」と問うことには、おそらくあまり意味がないのである。(p.70-71)



ナショナリズムというか「国家主義」とでも言った方が表現としてはしっくり来るような考え方が強まっている昨今であるが、「日本人の誇り」とかどこそこの国の人間は信用できない、とか、そうしたイメージを持っている人たちに対しては、次のようなことを示唆すべきだろう。

例えば、上記の引用文のような事実を知ることは、さまざまな捉え方がありうるということを知る意味でも重要である。歴史を学ぶことの意義の一つはこうしたことにある。




モンゴルの興起を「世界史の始まり」と呼ぶ歴史家もいるように、いったん「モンゴル」を共通の回路として体験したことが他者意識の変化をうながし、ポスト・モンゴルのユーラシア世界のあちこちで、モンゴルの遺産を繰り込みつつ、秩序構造の組替えが進行することになる。
 ・・・(中略)・・・。東アジアにおける冊封関係再建の試みはその一つの局面を構成し、天下を主宰する中華皇帝のもと、本来は皇帝と外臣の個人的関係の表現であった「冊封」が、「彼らは何人か」「あそこはどこの国に帰属するか」を区分し規律をあたえるための構造として、変成されることになる。(p.71-72)



モンゴル帝国によるユーラシア世界の統一と、その瓦解という局面は私も大変興味を持っている時代である。この問題について私はこれまでエジプトやイラン、ヨーロッパを中心に見てきたため、今のところ中国についての認識は不十分である。この叙述は、その不足していた部分を今後埋めていく上で、一つの重要な手がかりになりそうである。




 「国家はフィクションである」という。物理的実体でなく社会的構築物である以上、国家が「フィクションである」ということは、ほとんど自明のことであり、その存立に必然的な根拠はない。けれども、それは「いらないもの」か、と問われれば、われわれはそう簡単に「いらない」と答えることはできない、はずである。現代にあって、国家は制度としての社会的実在性を有している。「想像の共同体」であることを否定しえないとしても、われわれの日常の社会生活が、国家の存在を前提として組み立てられている以上、「想像の共同体」の循環的な存立から脱出することは、机上の議論としてはともかく、現実の実践的問題としてはきわめて困難である。であればむしろ、「想像」に依存し「想像上の」ものであることを承知のうえで、共有された規準系・参照枠あるいは拘束としての国家というメカニズムの作用を、われわれの認識構造に照らしてどのように把握し、いかにしてわれわれ自身の責任と制御のもとにおくかをこそ、考えるべきなのかもしれない。(p.99-100)



ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」論の妥当性は認めながらも、現実には「想像」では片付けられない面があることを認め、それに対処する方向で思考を進めようとしている。このあたりを読んで、数年前に私の周辺でなされていた議論を想起した。

私の意見では、本書の立場もまだ歴史学が負う宿命ないしその刻印を受けており、不十分であると思う。議論をさらに先に進められるはずである。しかし、私の周辺でなされていた議論よりはかなりリアリティを掴んでいる。当時の彼らにこの議論を伝えていたら面白かっただろう。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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