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アヴェスターにはこう書いている?
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朝日新聞社小樽通信局 編 『坂と歴史の港町 小樽 改訂版』

 安政年間に小樽内の場所請負人、恵比須屋半兵衛が、箱館奉行所の許可を得て私費により熊碓(今の東小樽)から銭函まで海沿いに約10キロの道をつけた記録がある。
 やがて明治政府が北海道開拓をはじめ、半兵衛の道を改良し、さらに明治13年、クロフォードなどの指導で、この道に鉄道が敷設され、汽車が札樽間を走るようになった。(p.72-73)


幌内鉄道が短期間のうちに敷設できたのは、こうした既存の道路を利用できたことも理由として大きかったのだろうか。



 明治41年の5月に小樽高等商業学校の地ならし工事が始まった。……(中略)……。校舎の設計は未定であったらしいが、文部省建築課札幌出張所長からの通達では大体は長崎高商の建物の平明図までつけられていたという。着工以来1年余をへて明治43年2月に、はるか港を見下ろす高台の地に木造二階建ての校舎ができあがった。(p.86)


小樽高商の校舎は、長崎高商の校舎を参考にして、あるいはそれをコピーして建てられたということか?



かつての小樽市民病院跡には立派な水道局の建物が建っており、古い図書館の建物がいっそう素朴に見えてくる。坂道を港の方に向かって下りて来ると、通りに面して右側に勤労婦人センターや職員会館の目新しい建物がめにつく。
 坂道の中ほど左側に郵船海陸運輸株式会社の嵐山社宅がある。その基礎地盤を支えている石がきにふと目を見張った。……(中略)……。
 市の社会教育研究所におられる高橋利蔵先生にうかがったところ、大正5年ごろ、小豆相場で巨万の富をきずいた高橋直治が、邸宅を建てるのに築いた石がきで、当時の金で一個につき10円出すから持ってこいと言って集めたとのことである。(p.88-89)


小樽は坂が多い町なので、この種の石垣は多く残っていそうである。



 現在の中野植物園内奥の源山にわいた清流のいくところを清水町、川幅が広くなった所は豊川町と決めた。その流れの源となる辺り一帯を源町として、「源、清水、豊川の流れは美しくにしきの如し」というわけで錦町の名が生まれたというのである。(p.125)


源町という地名は現在は使われておらず、清水町に含まれているが、一連の流れを長命にするというのは面白い。



 大正時代の小樽繁栄期に三井、三菱、住友系の各商社、銀行などが競って小樽に出先機関を設け、本州からの転勤者のために社宅の建設が急がれることになった。社宅地に選ばれたのが現在の富岡町一帯。板谷商船や榎本武揚らの北辰社の社有地で、買収が容易であったらしい。
 社宅ができると、古くから開けた勝納川、オコバチ川の流域や、港に近い町並みとは違った雰囲気をかもしだしてきたが、これは港町共通のものである。函館市の山の手ハリストス教会やカトリック教会、そして多くの寺院が集まっている元町あたりの住宅地がそのよい例。そのほか横浜、神戸、長崎なども下町と対照的な山の手ができあがっている。(p.130)


小樽の繁栄期に銀行や商社などが進出してきたため社宅が必要になり、買収が容易であり、函館からの鉄道も開通した駅の付近でもある富岡町に建てられることになり、それによってこの界隈が山の手を構成することとなったということか。



蘭島、塩谷はブドウ産地として知られるが、昭和の初期のニシン不漁期に、収入安定を図るための殖産としてすすめられ、今日に至っている。(p.207)


現在の蘭島や塩谷にはあまりブドウ産地というイメージはない。むしろ、すぐ隣の余市町や仁木町にこうした果物産地のイメージが色濃い。ブドウ栽培もやめてしまったということか?少し調べてみたい。

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