アヴェスターにはこう書いている?
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安丸良夫 『神々の明治維新――神仏分離と廃仏毀釈――』

 だが、16世紀末から17世紀はじめにかけて、儒教の影響力はまだ小さく、幕藩体制を根拠づける支配の思想としての地位を獲得してはいなかった。……(中略)……。しかし、あたらしい権力者は、彼ら自身が個々の宗教的存在をこえる絶対性と超越性をもって君臨したために、みずからを神格化する傾向があった。
 政治的権力者自身を神格化する方向に道を拓いたのは、信長であった。……(中略)……。あたらしく成立してきた統一権力の従来の宗教勢力への優位性の確認が、権力者自身の神格化を通じてなされたのである。こうした権力者自身を神格化する態度は、秀吉や家康の時代にもうけつがれ、地方の大名なども神格化された。……(中略)……。
 現世の権力者や功績ある者が神として祀られるようになるのは、この時代より以降のことである。(p.22-24)


儒教が影響力を獲得していくのは江戸時代になってから、という理解は重要であろう。

また、権力者や功績ある者を神として祀るのも概ね安土桃山時代や江戸時代以後のことだという点も興味深い。日本統治時代の台湾でこうした現象が多くみられたが、この「伝統」は日本の江戸時代以後の考え方によるものということになろうか。(台湾の住民にも同様の観念があったという可能性もあるが。)



農村でも都市でも、家の自立化が家ごとの祖霊祭祀をよびおこし、それが仏教と結びついた。そして、家ごとに仏壇が成立したことが、他方では神棚の分立をもたらした、という(竹田聴洲「近世社会と仏教」)。(p.26)


家の自立化という社会学的な事実が信仰心の形態や信仰の対象に影響したというのは興味深い。



宗教は、それ自体魔術的なものであるがゆえに容易に制御しがたいのであり、民心をたやすく蠱惑してしまう、忠孝などの身分制倫理を内面化していない民衆は、その誘惑に抵抗しえないだろう、というわけである。キリスト教の魔術的な威力と民心の動向という二つの容易に統御しえないものが結びつけられて、想念のなかで危機意識がいっきょに膨張するような仕組みになっている、といえよう。(p.35)


幕末尊王攘夷思想の代表作『新論』(会沢安)についての解説。この本は明治以後の教育勅語や修身教育の淵源となる性格が強い書物であるという。

この「想念のなかで危機意識がいっきょに膨張するような仕組み」は、極右や極左のような極端な思想にしばしばみられる思考パターンではないだろうか。こうした仕組みが組み込まれていることによって、この種の思想に「感染」した人々は、「危機」の客観的な度合いを正確に見積もることができなくされているように思えてならない。

少なくとも、安倍晋三が2015年に安保法制を強引に成立させようとした時に使ったレトリックは、一般の政治的に関心の低い層に対して、こうした危機感を煽ることによって自らの論理的・客観的に無理のある主張に同調させようとしたものであるとは言える。反対する立場の人々の批判に対して、安倍や政府がまともに答えることができなかったことも、政府側の発想が「想念のなかで」膨張した危機感に捉われている限りにおいてしか同意を得られないものであることに原因がある。

ここで指摘されているような思想的な仕組みについては、もう少し掘り下げて考えてみる価値がありそうだ。



 ここにみられるのは、記紀神話などに記された神々と、皇統につらなる人々と、国家に功績ある人々を国家的に祭祀し、そのことによってこれらの神々の祟りを避け、その冥護をえようという思想である。こうした神々が、たんなる道義的崇敬などからではなく、祟りをなす怨霊への恐怖にもとづいて祭祀されなければならないとされたことは、注意を要するが、国体神学が日本人の神観にもたらした決定的な転換は、右のような神々をこそ祭祀すべき神として措定し、それ以外の多様な神仏を祀るに値しない俗信・淫祀として斥けたことにあった。
 こうした考えにそって、明治元(慶応四)年以降、神社の創建があいついだ。(p.60-61)


日本人にとっての伝統的な信仰と思われている神社での信仰も、かなりの部分は明治以後に新しく「創られた伝統」であることは押さえておく必要がある。神社の創建が明治以後に相次いだという点は、地域研究(私の場合は小樽、札幌、台北の都市研究)と結びつけるとかなり面白そうである。



 宮中の祭儀や行事などの神道化も、右のような動向に照応するものといえよう。これにさきだって、幕末の宮中では、仏教や陰陽道や民間の俗信などが複雑にいりまじった祭儀や行事がおこなわれていた。新嘗祭など、のちの宮中祭儀につななるもののほか、節分、端午の節句、七夕、盂蘭盆、八朔などの民俗行事がとりいれられており、即位前の幼い明治天皇が病気になると、祇園社などに祈願し、護持僧に祈禱させた。これらの祭儀や行事などには、民俗的な行事や習俗などをもっとも煩瑣にしたような性格があった。……(中略)……。
 また、天皇その他の皇族の霊は、平安時代以来、宮中のお黒戸に祀られていた。お黒戸は、民家の仏壇にあたるもので、そこに位牌がおかれ、仏式で祀られていたのである。天皇家の菩提寺にあたるのは泉涌寺で、天皇や皇族の死にさいしては、泉涌寺の僧侶を中心にして仏式の葬儀がおこなわれてきた。皇霊の祭儀が神式に改められたのは、明治元年12月25日の孝明天皇三年祭からである。(p.64)


天皇や皇族が神道的な行事を行うというのは、現在のわれわれの漠然とした観念に照らすともっともらしく見えるかもしれないが、これは近代になって「創られた伝統」であって、もともと皇族も仏教や民間信仰などに基づいて儀式などを行っていたことを理解しておくことは重要である。



 仏教側の動向のうち、もっとも重要なのは両本願寺である。幕末の政治情勢のなかで、その創立の由来からしても東本願寺が佐幕的だったのにたいし、西本願寺門末には勤王僧の活躍が顕著だった。後者の中心は長防グループで、西本願寺の重要な拠点である長防二国には、長州藩の尊攘倒幕派と結んで活躍する活動的な勤王僧が輩出したが、こうした動向は、やがて西本願寺を幕末の政局にひきこんでゆくことになった。とりわけ、鳥羽伏見の戦いにさきだって、慶應3年12月26日、門主広如が参内を命ぜられ、新々門跡の明如がかわって参内すると、西本願寺は朝廷方を構成する勢力の一部となった。鳥羽伏見の戦いにさいしては、西本願寺は御所猿ヶ辻の警備を命ぜられ、武装した僧侶百名余が御所を固めるとともに、諸国門徒に出京を求めた。
 これにたいして東本願寺は、鳥羽伏見の戦いが朝廷側に有利に展開しそうなのを見て、あわてて忠誠を誓った。……(中略)……。しかし、こうした政治姿勢の相違にもかかわらず、両本願寺が朝廷に忠誠を誓ったこと、とりわけ厖大な献金をおこなったことは、まだ権力基盤の弱い維新政府にとって重要であった。(p.77)


やはり本願寺と政治との関係は興味深い。幕末における幕府や朝廷との関係もそうだが、維新政府に厖大な献金を行ったという指摘は見逃せない。例えば、北海道の歴史などでも本願寺道路の建設など、政府の開拓を助けていたこととも繋がっているように思われる。



 五節句の廃止と新祝日の制定は、新暦への転換(6年1月)とあいまって、国家的祝祭日をもって民間の習俗と行事の体系をつくり変えようとするものだった。同年10月には、元始祭以下の祝祭日があらためて制定されて、近代日本における祝祭日の体系が完成したが、こうした国家的祝祭日と民間の信仰行事との葛藤は、国民意識の国家への統合をめぐる重要な対抗軸として、明治末年までひきつがれた。(p.134)


長期的にみると、政府の意図(民間の習俗と行事の体系を作り変えようとする)は、かなりの程度成功を収めたように思われる。権力は時間をかければ人々の心のありようまでかなり変えることができる場合があることがわかる。



 廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は、四年以降、近代的国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらなた宗教体系の強制であった。(p.142-143)


明治時代には膨大な「伝統」が創られており、それは近代国民国家に対するある種の忠誠を調達するためのものであったと理解しておきたい。なお、安倍晋三やそのシンパたちの国家思想は、被治者たちの内面への支配を欲する点でも明治期を理想としているように見える。



 こうした多様な神仏関係のなかから、国家によって神社祭祀が体系化されたとき、村の氏神(産土社)だけが選びだされ、しかも、氏寺や仏像を排して、一村一社の神道式の氏神の成立が目標とされたのであった。……(中略)……。こうして、村々に祀られていた多様な神仏のなかから、産土神だけが浮上してきた他を抑え、いま私たちが村や町で見るような氏神が成立した。私たちが神社の様式としてごく自然に思いうかべてしまう鳥居、社殿、神体(鏡)や礼拝の様式なども、その大部分は、こうした国家の政策を背景として成立したものであった。(p.167)


神社の様式や礼拝の様式について、もっと詳しい分析をしてほしい。宗教建築を含めた建築の様式には個人的に興味を持っている分野でもあるので、神社建築についても深く(そして批判的に)学んでみたいと思う。


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