アヴェスターにはこう書いている?
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北海道新聞社 編 『おたる再発見』(その3)

 小樽の港は明治5年(1872年)、手宮港から小樽港へと改称された。当時の市街地の中心は現在の堺町周辺。手宮は地形的にも小樽市街との間を石山=荒巻山という丘陵に海までさえぎられ、人馬の通行を妨げていた。
 荒巻山は地主の荒巻家からその名が起きており、明治以来、その形状は人為的に変化してきている。当初、手宮と小樽を区切るような形で海まで続いていた丘陵は、人馬を通すためまず海岸部分が削られ、車馬道が完成。明治13年、今度は鉄道工事のためさらに山側が削られた。さらに、各種土木工事の増大で、石材の必要性から内陸部へと削り取られていった。鉄道、道路、築港工事など、小樽発展に欠かせない重要な事業に、荒巻山はその形を変えながら、かかわってきたといえる。
 荒巻山が手宮、小樽の交通体系整備の妨げとなっているのは、今も昔も変わらない。(p.84)


小樽の歴史を語るとき、しばしば、駅名が変わったということは指摘されるが、港の名前もかつては手宮港だったとは知らなかった。港の北側の方が現在も波が小さいことが多いことを踏まえると、港の重要な部分もおそらく北部の手宮側だったのだろうと想像する。

また、石山=荒巻山が、形を変えながらも交通の妨げとなり続けているという指摘はその通り。



 現在の稲穂(小樽駅前周辺)が小樽の中心街となったのは、明治末期以降である。明治38年(1905年)、現国鉄函館本線が開通した当時、駅(高島駅と呼ばれていた)前には、まだ沢地が残っていた。この周辺が稲穂沢といわれていた名残りである。稲穂はアイヌ語でイナウ。神の意味があり、神のいる沢を指していた。ここでいう神とは、龍宮神社のことで、アイヌの人々は龍宮神社のある沢という意味から、イナウ沢と呼んだ。函館本線開通以後は、沢のほとんどが埋め立てられ、次々に家並みが造られていった。(p.86)


明治末期に稲穂界隈が市街の中心地になったことはしばしば言及されるが、それ以前に沢地だったことはあまり語られない。龍宮神社のある沢地だからイナウ沢であり、稲穂沢となり、沢が埋め立ててなくなったら稲穂となったという地名も面白い。欲を言うと、龍宮神社の由来についてももう少し掘り下げて書いて欲しかった。



 明治17年(1884年)、花園町という名前が生まれたが、それまでは町名が不要なほど、人家に乏しい所だった。町名が生まれる二年前の同15年、避病所(伝染病患者を隔離、治療する所)が建設されたが、人里離れた山奥ということで選ばれたのが、現在の小樽市役所の土地だった。
 今、街の中心部に位置している小樽公園(花園公園)も同様である。明治13年、時の開拓長官黒田清隆は、小樽総代人渡辺兵四郎らを宿舎に呼び、小樽は将来、大きく発展するであろうから、公園造成を今から考えておく必要がある、と説いた。これを受けて提出された公園予定地は、水天宮裏だった。
 黒田はそれを聞いて、水天宮裏は将来、町の中心にはなり得ないとして、櫛形山(現在の小樽公園東山)周辺を逆提案、現在地に決められたという。
 実際に工事が着手されたのは明治26年だったが、人家がほとんど無かった場所が、将来小樽の中心になると、黒田は読み取っていたのだろう。今から百年近く前、原野と山林に覆われた場所に小樽公園が完成した時、どれほどの住民が現在の姿を予想しえただろうか。(p.87)


現在の市役所の土地が明治初期には「人里離れた山奥」であり、避病所が置かれていたとは知らなかった。

小樽公園(花園公園)の場所は黒田が将来を見据えて提案してきたものだったというのも面白い。



 三本木急坂側、つまり入船一帯が信香側に代わって小樽の街の中心となったのは、明治13年の鉄道開通以降からである。住吉停車場(現南小樽駅)ができ、乗降客が増えるにつれ、駅周辺には小間物、雑貨屋、料理屋が軒を並べていった。(p.91)


明治期の小樽の市街地の変遷はしばしば大火と結びつけて説明されるが、鉄道やその他の経済的な動きなどが背景になっていた面も加えて考慮すべきだと思う。



 明治28年(1895年)ごろから、北辰社は思い切った整地事業に乗り出し、高いところは12メートル以上切り下げ、低い場所は逆に12メートルを埋め立てて平坦な路面にした。
 この整地により、稲穂地区は市街地として急速に発展することになる。榎本の号が通りの名前として残っているのは、このいきさつのためだろう。(p.95)


この整地事業によって「イナウ沢」の沢が埋め立てられわけだ。鉄道(現在の函館本線)が開業することが決まったのはいつなのだろう。開業することに合わせて整地したのか別々の理由で進めていたところに鉄道が来たのかは気になるところである。



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