アヴェスターにはこう書いている?
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北海道新聞社 編 『おたる再発見』(その1)

 この二両を比較すると、しづか号の全重量は28.9トンに対し、大勝号は26.4トンとわずかに軽量。形態は煙突部分を除いて、そっくりである。それもそのはずで、大勝号はアメリカ・ポーター社製の輸入機関車を手本に、明治28年(1895年)に製造されたものだ。(p.25)


なるほど。現在の小樽市総合博物館に所蔵されている二両の機関車にはこういう繋がりがあったのか。



昭和37年、手宮駅は旅客取り扱いを廃止した。しかしガンガン部隊は達者である。今は小樽駅から大量の荷物を抱え、定期券を口にくわえて改札口を通り、列車に乗り込む。高齢者が多いが、車内で弁当を開く姿は、昔そのままだ。(p.26)


本書は1984年に出版されている。ガンガン部隊は80年代にはまだ健在だったことが分かる。



 小樽が明治、大正期、全道一の経済都市に成長したのは、鉄道の果たした役割が大きい。
 小樽-函館間の鉄道が開通したのは明治37年(1904年)。北海道鉄道株式会社の私鉄としてスタートし、沿線の農畜産物、木材などがどしどし小樽に入り、見返りに米、呉服が移出された。開通前、北の黒松内までが函館の商圏だったが、これが小樽の商圏に。翌38年、線路が現南小樽駅まで延び、幌内鉄道と結ばれ、ここから東部へと商圏が拡大していく。(p.27)


明治末の鉄道の拡大が大正の全盛期を支えるインフラの一つとなったことは想像に難くない。



ところで、現小樽駅から南小樽駅へ鉄道が敷設される時、幹線道路と平面交差するという問題が生じた。当時はやむをえないとされたが、以後市街地発展上、大きな支障となった。現在の立体交差・稲穂架道橋は昭和39年9月、道内初の高架橋として開通したもので、問題解決まで実に61年もかかったことになる。(p.27)


なるほど。幌内鉄道として作られたルートと北海道鉄道として作られたルートを繋いだことは、小樽駅と南小樽駅の間の線路の蛇行を説明するものであるが、このことは同時に市街地を線路が分断(両者が平面交差)するという問題も生じさせていたわけだ。



 北防波堤の建設工事に着手した明治30年(1897年)、小樽は既に港湾都市としての形態を整えつつあった。
 人口も5万5千人を数え、港に陸揚げされる物資も、年ごとに増加していった。当初は石炭積み出しが主だったが、穀物、雑貨など生活関連用品の移出入量が増えたことにより、それまで手宮が中心的だった港湾機能もそのものまで、次第に東側(小樽築港側)に移りつつあった。しかし、北防波堤は広い小樽港の手宮側、西半分に対しての防波堤という感じが強く、東側半分は相変わらず、波風に洗われる状態が続いていた。(p.35)


小林多喜二が小樽に移住した際に住んだのも、明治末頃の小樽築港エリアだった。これは当時の小樽の港湾や市街の状況を反映している面があると言えそうである。



 当時の写真を見ると、現在の小樽倉庫の前に、かなり大きな船入澗があったことが分かる。船入澗の中には艀が並び、倉庫前には馬車と、仲仕であろう人々で盛況を極めている。この船入澗は運河建設がはじまる大正3年(1914年)まで活躍した。(p.35)


小樽倉庫の繁栄や船入澗から運河へという時代の流れが見て取れる。



 ふ頭の構造の変化を示しているのが第三ふ頭。基部から真ん中部分までは昭和29年、さらに先端側は同42年と二期に分けしゅん工しているが、先端側はエプロンの幅が15メートルと基部側より5、6メートル広い。接岸船の大型化に対処した措置である。(p.36)


面白い。こういったことは一般的なものなのか、かなりレアなケースなのか、少し気になる。



 大正6、7年にかけての最盛期には、市内の堺町、南浜・北浜町(現在の色内1~3丁目運河周辺)を中心に二十数軒の豆撰工場があり、そこで働く女工たちの数は6,000人を超えたといわれる。(p.37)


第一次大戦の好況期に小樽から輸出される小豆がロンドンの相場を動かしたと言われることがあるが、その頃の市内の状況。



昭和19年以後、軍関係者を収容するため、丸井デパートでは品薄で売り場がガラ空きになった四階以上を供出、賃貸させられ、国民学校12校、中学校3校の教室や運動場が軍用となった。(p.44)



デパートが軍用とされられたというあたりからは、戦後の札幌も三越が進駐軍に接収されたということを想起させられた。



 小樽進駐軍は約4,500人という規模。三井ビル(現松田ビル)に司令部を置き、市内各所に駐在したが、そのために接収された建物は最高時、135カ所に上った。建物は目立つところをペンキで塗りつぶし、台無しになった調度類も多かった。(p.45)


松田ビルにも進駐軍の司令部として接収された過去があったとは。

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