アヴェスターにはこう書いている?
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札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭』(その2)

とくに明治20年以降、中島公園が本格的に整備されていくにつれ、偕楽園の公園の機能は薄れていった。札幌の市街地は南にむかって伸びていき、幌内鉄道(現在の函館本線)が開通して、北側の広がりを遮断してしまってから、しだいに偕楽園一帯は、まわりの発展からとり残されていった。そうしたなかで、清華亭のみが、この地にとどまり、生きつづけるのである。(p.193)


偕楽園が公園としてはすぐに廃れたのに中島公園は長くその機能を保っている理由はどういったところにあるのだろうか?大通の北が官庁や文教、南が商業地区となり、豊平川も南側にあるということが市街の南への伸展を促した面はありそうに思う。また、幌内鉄道が小樽(手宮)から札幌まで開通したのは明治13年、幌内まで全通したのは明治15年であったが、鉄道が市街の中心と偕楽園一帯を分断したという指摘も大きな要因であるように思われる。現在でも札幌駅の北と南では雰囲気がかなり異なることからもそれは感じられる。

しかし、ある意味では、こうした分断により都市開発からとり残されることで清華亭だけでも残ることになったというのも一面の真実かもしれない。もし、こうした分断がなく、現在の札幌駅北部も南と同じように都市開発がされていれば、清華亭すら失われていたかもしれない。都市がどのように変わっていくのか、変わっていくべきかということは難しい問題だと感じる。



 昭和の時代を迎え、世相はしだいに戦時色を強め、国策は国体を重んじ、国威の発揚をめざした種々の政策をうちだしていったが、その一環として、史跡名勝の保存、伝承が叫ばれて、かつての明治天皇行幸の聖跡は、再びクローズアップされることになった。
 その気運は、一部心ある人びとの保存運動と結びつき、建造物としてもすぐれた資質を誇る北海道開拓の歴史をとどめようという動きが起こった。こうして清華亭に保存の手がさしのべられたのは、昭和初めのことであり、このとき、保存運動の中心となった人が河野常吉であった。(p.196-197)


戦前の国家主義的政策やナショナリズムの高揚と結びつく形で、昭和初期に歴史的建造物の保存の運動が起こったというのは興味深い。ある意味では国家主義の流れを汲んでいる面もありつつ、同時にそれとは同床異夢的な発想もあり、といったところだったものと想像するが、もう少し掘り下げて調べてみると面白いかもしれない。

また、北海道と台湾の比較という私の視点からすると、最近の台湾における懐日趣味が、台湾における台湾人意識の高揚と結びついているといった現象と昭和初期の北海道で見られた(他の地域はどうだったのか?)現象との共通点と相違点を調べてみたいと思う。



 清華亭は、開拓使洋風建築の中では、豊平館(1880年)、札幌農学校演武場時計塔(1881年)や植物園博物館(1882年)などと共に、後期に属するものだが、初期の洋風色濃い建築意匠とは、相当異なるものとなっている。
 もちろん、洋室棟22.29坪、和室棟14.93坪にみられるように、あくまでも洋室部が主体であるし、和室棟の大棟先端には洋風棟飾りを飾るなど、外観を洋風で統一しようとする意図は明白である。
 しかし、縁側をまわす和室を、このようにかなり重い比重で採用したものは、これ以前の開拓使洋風建築にはなかったことである。
 和様二室を接合した構成例としては、最も早いものの一つといえる。
 同時に、和室軒先出隅の反り上げや、洋室内部に床の間様の棚をしつらえたり、天井メダイオン(円形模様)の桔梗の浮彫などの細部で明らかなように、洋風を主としながらも、和風への回帰が明瞭に表れているのである。
 公式的性格を持つ豊平館に対して、庭園内の清華亭は、休憩所として、もっとくつろいだ東屋風なものとして、設計者もホッと一息つきながら、のびやかに腕をふるうことができたのかもしれない。
 とはいえ、天皇の御休憩所である。そこには格式化・様式化への志向も顕著にみられる。平面形に凹凸をつけて建物外形に変化をつけたり、外部出隅の柱を太くして重々しさを表現したり、ベイウィンドウの採用などは、その志向の表れともいえるかもしれない。
 とくにベイウィンドウ採用は、北海道の初期洋風建築では、開拓使本庁分局(1873年)と共に珍しく早い例であった。
 また、このベイウィンドウ部軒下回りを、入念な細工の持送りで飾ったり、外壁を三層構成にするなど、在来の飾り気のない、さっぱりとした意匠に対して、非常に賑やかになっていることも注目される。(p.2.09-211)


清華亭の意匠についてのコンパクトな解説だが、私があまり今まで気づかなかった点がいろいろと指摘されており興味深かった。

上記解説文については、まず、「開拓使洋風建築」というカテゴリーを用いていることも新鮮に感じた。特にこれを前期や後期と分けているのには少し驚いた。というのは、開拓使が置かれてから廃止するまでの期間は、明治2年(1869年)から明治15年(1872年)しかなく、12-13年の中で前期や後期と分ける発想を私はしたことがなかったからである。しかし、考えてみると、洋風の技術やデザインが次第に流入してきた時期であるから、多くのことを当時の建築家(大工など)は学んでいたということを考えると、期間が短くても変化を捉えることができる面もあるかも知れない。

昭和初期頃までの豪邸は、多くが和洋折衷というか和様接合の構成であるが、和様接合の構成例として清華亭は最も早いものの一つであるという指摘もなるほどと思わされた。北海道以外の地域ではこうした構成がどのように展開していたのか、といったことも含めてもっといろいろなものを見ていきたい。

清華亭のベイウィンドウについて、格式化・様式化への志向を示すという理解は、実物を見た時には気付かなかった点であり勉強になった。ベイウィンドウという様式化されたデザインを採用することで、格式の高さが演出される面がある。ベイウィンドウのな清華亭を想像すると、外観も現在のものより平板なものとなることが容易に想像できる。



ここは駅の裏手にあって労働者や低所得者が残されたこの空地に押し寄せた。北九条小学校や全市一の児童数をもち、かつ東小学校と共に“貧乏学校”などといわれた。「貧乏人の子沢山」の意だろう。
 その子たちの遊び場は、偕楽園付近と北大構内などであった。……(中略)……。
 大正7年には開道50年の喜びを迎え、大博覧会が催された。この機会に多くの人は札幌見物に集まり、やがてはここに住みたいと思い、あるいは将来を見越して土地買いを試みる人などが続出した。この期に土地は細分化され、あるいは河川敷のようなところにも人家、自給畑が開かれた。ことに資産家の山本、伊坂などが狭い道路沿いに偕楽園廉売市場を設けて小売商人に賃貸した。これがいよいよこの地区に人家を密集させる誘因となった。
 遊び場は人家に占領され、数年前のローンは姿を消した。子供たちは清華亭のスロープを駆け上り駆け下りた。やがて赤土が露出し、その下に東西の街路が設定され、大正14年には市街割りが施された。清華亭は数百坪の一角に押し込められ、北7条西7丁目という地番を以て示され、偕楽園という旧名も人々から遠いものとなった。(p.220-222)


大正時代の清華亭の付近の状況を伝えている。低所得世帯の子供たちの遊び場だったものが、投資家や資産家たちの思惑によって遊び場すら奪われていったという見方が示されている。当時住んでいた人の目線で、清華亭も現在のような狭い地域に閉じ込められるに至ったという経過を伝えいる点でこの周辺の記事は貴重な記録と思う。

こうした荒廃の後、昭和初期に国家主義と結びついた運動により保存が進められていくという流れも押さえておきたい。



 また伊藤亀太郎邸内の湧水などから流れてきたサクシュ琴似川は、線路の下、煉瓦のめがね橋の下(北6西8)を流、それが偕楽園、清華亭のあたりを経て、北大に入っていた。偕楽園には大小の池があり、遊園地のような風情も残っていた。めがね橋付近では毎日婦人の洗濯姿も見られ、その水は清く冷たくて、長くは入っていられなかった。北九条小学校の生徒時代(大正2年~8年)は、それでもよくトンギョやザリガニを取って遊んだ。五年生の頃、この川で大きくて長い八ツ目うなぎを手づかみで捕えたことを今なお覚えている。
 この川や池の水も28年前、即ち昭和27年にステーションデパートが開設され、その地下工事等のため、急にストップされてしまった。その後川や池の跡地は埋められ民間に利用されている。(p.230-231)


札幌駅の開発がサクシュコトニ川を枯れさせてしまい、今では川や池の跡地も埋められているということが分かる。こうした変化に対して当時の人々はどのように反応していたのだろうか?政府や札幌市などに対して働きかけたりはしなかったのだろうか?



 堅実で奇を求めぬ性格は、開拓使の洋風建築に一貫している。模範家畜房で伝えられたように、目に見えない構造や、新しい技術に対しても、安達をはじめとする開拓使の建築家たちは精魂を込めてとりくんだ豊平館が生みだされるまでには、こうした洋風建築修得の数年にわたる努力が積みかさねられていたのである。(p.248)


開拓使の建築」という見方には、組織に蓄積された知見というものを捉えられるという面もありそうだ。


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