アヴェスターにはこう書いている?
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札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭』(その1)

 この明治23年は、国会が開設された年である。国会が開かれると同時に、藩閥政府の批判の声が次第に高まり、薩摩藩閥を主とした永山行政は大きく揺らぐこととなった。明治24年5月、松方内閣は三代目長官に渡辺千秋を任命した。渡辺は薩閥一掃を図り、とくに薩派の本拠ともいわれた北海道炭鉱鉄道会社の革新を進め刷新の実を挙げた。(p.19)


北海道長官が永山武四郎から渡辺千秋に替わった背景には、国会の開設と、それに伴う藩閥政治への批判があったという指摘はなるほどと思わされた。北炭も明治期の北海道の歴史を考えるにあたっては要となるものの一つであり、ここで指摘されているような政治的背景を理解しておくことは重要と思われる。



6年満州事変勃発、7年満州国独立。この年三越札幌支店開業、8年には国際連盟脱退の詔書が渙発され、7月には非常時国民運動協議会が開かれるなど一気に緊迫の度を加えて行く。このあわただしい状況のなかで、この年11月明治天皇行幸ゆかりの施設は聖蹟と指定され、札幌市では豊平館、清華亭が史蹟として、史跡名勝天然記念物法により文部大臣指定とされた。(p.25-26)


1930年代の戦時体制への移行と国家主義の高揚を目論む動きと聖蹟指定とは連動していると押さえるのがよいだろう。こうした政策は、全体としては否定的に評価されるべきだが、「聖蹟」に指定されたことによって戦時も保存されたため、歴史的遺産として保存されることにも繋がっていったという一面もあると私は理解している。



 昭和22年2月、新学制として採用された6・3制。24年6月公布の教育刷新審議会、社会教育法などによる戦後社会教育の推進は、豊平館の公民館機能を高めさせた。豊平館は整備され23年2月に札幌市公民館として再出発し、24年9月には札幌市民会館と改称、社会教育機能はさらに活発に動き出すこととなった。
 25年には国からその敷地4,922坪が払い下げられた。そして、その機能を十分に生かすための近代設備を整えた新しい札幌市民会館建設のためと、明治時代の洋式木造建築物としての代表作でもある豊平館の保存のために、豊平館を中島公園に移設、そのあと地に市民会館建設を決定し、昭和32年2月19日、豊平館の解体式が行われた。(p.27-28)


2008年に建て替えられた札幌市民ホール(現在はわくわくホリデーホール)の場所にあった市民会館は昭和33年(1958年)にできたものだった。この時、この地にあった豊平館が中島公園に移築された。

その歴史的背景として、公民館機能に対する社会の需要があり、それを民主的な社会教育が後押ししていたことも挙げられる、と私は理解した。

ちなみに現在の日本の右派ないし保守派が教育を改革すべきと発言することがしばしばあるが、その際に6・3制(6・3・3制)をやめて柔軟な体制にすべきだ、などと言われることがある。しかし、その理由を訊ねても説得力のある回答は見受けられない。その理由は、彼等の目的は戦後まもなく決められた制度を自身の手で壊して書き換えていくこと自体にあるからであろう。そして、それは「押し付け憲法論」のような悪質なイデオロギーを根拠として「自主憲法制定」を目指す考え方と全く同じ発想であるということは指摘していてよいだろう。

なぜ右派・保守派とされる人々は、教育や憲法に対してこうした同じ反応を示しているのだろうか?彼らは民主的なものや個人の権利・人権というものに対して嫌悪感を抱いており、それは突き詰めると権力者を縛るからである、と見れば、彼等の打ち出す政策を整合的に理解することができる。(例えば、自民党の憲法草案を見れば、現在の憲法よりも個人の人権を制限し、政府の権限が大幅に増えるようになっていることは容易に見て取れる。)



 この敷地は、最初、西南戦争で没した屯田兵の招魂碑を設置する地所として、決定していた。が、洋造旅館の計画に当り、「庁下の中央に位置し、滞在客の開拓使庁や市街への往復に便よく、かつ、胆振川の河流を敷地内に導けば、庭前に泉池を設けることができ、旅館建築に必適の場所」であるため、明治11年10月1日、屯田事務局が工業局へ譲ったものである。なお、招魂碑は、清華亭構内の西南隅に建立された。(p.62)


豊平館が建てられた現在の北1条西1丁目の土地についての記述。確かに市街の中心と創成川の両方に近い。



 豊平館が中島公園に移築されたのは昭和32年で、それによってその由緒深い歴史的な生命は失われ、単なる文化財としての建築上の価値だけしか残らなくなった
 もし創建された昔の姿のままで、北一西一の地に、原始林を背景として今日まで残存していたならば、時計台とともに、札幌開発の象徴として高く評価され、市民からは貴重な存在として崇められたり、親しまれたりして、大きな意義と価値とをもたらしていたに違いない。(p.165)


豊平館の移築に対する一つの評価。本書は複数の著者によりかかれているので別の評価をする者もいるが、こうした評価にも一理ある。

歴史的建築は、その土地にあってこそ価値が高まるというのは一般的に言っても全くその通りであり、豊平館については札幌の開拓初期の象徴となっただろうことも同意見である。とはいえ、中島公園に移築したからこそ現在でも建築だけは保存されたという一面もあったように思われる。昭和33年と言えば札幌が急速に大きくなり始めた時期であり、日本全体としても60年代の高度成長期に入る頃であり、その頃の考え方に照らせば、比較的大きな敷地と共にある木造2階建ての建物はある意味では邪魔者扱いされる危険が高かった。(時計台は市内中心部に残っているが、これも曳家で移動している。)そうしたリスクを避けられたという意味では移築にも一理あったのではないか。

また、引用文には、「原始林を背景として」とあるが、そうした環境を含めた保存は札幌の中心にあることに照らすと現実的ではないように思われる。だからこそ時計台なども、その歴史的な意義を認識できない場合、観光地としてガッカリする人がいるところとして紹介されてしまうのだと思われる。確かに時計台と豊平館が近接して残っていれば、そうしたガッカリを減らすことができるような相乗効果は多少期待できるかもしれないが、戦後の札幌の急速な都市化の進展を考えると、そこまで理想的な展開を期待できないと感じる。

豊平館はつい最近、保存修理工事を完了し再公開されたので、訪れた上で改めてこうした移築に関する問題について考えてみたい。

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